Scythe
まだ起きていない街の、しんと冷えた空気。昔から、その冷徹さが好きだった。一日の始まりに相応しいのは日の出よりも少しだけ前だと、五十八歳になった今でも思う。知り合いから地域の見守りパトロールに誘われたのは五年前のことで、担当は片側二車線の交差点。ここの信号が歩車分離式になるのは、かなり先の話だ。一時間ほど立ちっぱなしなのは辛いが、自営業で不規則になりがちなリズムを早起きで朝型に強制されたのは、結果的に良かったのだと思う。
親から継いだ駄菓子屋は子供のたまり場で、収入源には全くなっていない。ほとんどは妻の佐夜子に店番を任せている。近所の子供の間では、枝川商店という堅苦しい名前は略されて『エダショー』と呼ばれているらしい。本業は、駅前の猫の額ほどのスペースで経営するとんかつ屋『とん八』だ。数字の八は、ちょうど開業した十五年前、中学校でバスケをやっていた聡一の背番号から取った。三十歳手前になった聡一は結婚して、今は隣の市に住んでいる。そうやって子育てが終わったら、隙間をすかさず埋めるように、他の子供の世話を任されることになった。
枝川利文、還暦目前。体格は元々大きく、腕力にも自信はあるが、骨の継ぎ目はあちこちガタだらけだ。
小学校のバスケ部にも顔を出すように言われているから、聡一を育てているときよりも今の方が忙しい。繁華街が近くてお世辞にも治安がいいとは言えないから、子供が事件に巻き込まれないよう親が神経質になるのは当然だ。聡一は、中学校に上がるころには大人顔負けの体格をしていたから心配はなかったが、こうやって通学路に立っていると、ほとんどの子供というのは弱々しくて、行動も危なっかしい。一番多いのは声掛け事案で、下校時は十分単位で危険度が増していく。どれだけ集団下校を徹底しても、はぐれる生徒は必ずいる。
色々と考えている内にビルの谷間がオレンジ色の光線を放ち、昇り始めた朝日が目を刺した。太陽は、どんな事情を抱えた人間であろうと、同じ角度から同じ色に染めていく。
「街が生きてらあ」
思わず呟いたとき、真後ろでくすくす笑う声が聞こえて、おれは振り返った。六年生の打田歩花がランドセルを背負いなおしながら、復唱した。
「街が生きてらあって、ははは。なにそれ」
「これから人が動き出して、一日が始まるってことだよ。早起きだな?」
「奈緒と約束してるから。あっ、今日は帰りエダショーに寄りたい」
「ご来店ありがとうございます。五人ぐらいで、一緒に行くんだぞ」
おれが言うと、打田は首をぶんぶんと横に振った。
「そんなたくさん、友達いないよ」
打田の親友は、石森奈緒。体操をやっていて、お母さんはPTAの一員。こっちの仕事は交通の安全を確保することだけだから、交遊関係を知ろうとは思わないが、子供はすれ違うだけの数十秒で、大人の会議一回分ぐらいの情報を早口で詰め込んでいく。
「最近、黒いバイクの人いなくなったね」
通学路を時速百キロ近いスピードで突っ走る、黒のヤマハMT−09。ライダーは、近所のワンルームマンションに住む大学生の男だ。いなくなったのには、理由がある。三ヶ月前、駐車車両に突っ込んで死んだ。しかし、そんなことは打田の耳には入れたくない。
「飽きたんだよ」
おれが言うと、打田は片方の眉をひょいと上げて、背伸びしながら石森の姿をきょろきょろと探した。そして、静かに体ごと後ろに下がった。
「エダショーは飽きない?」
「店じゃなくて、おれがエダショーなのかよ。飽きるって、何に?」
打田は、おれが手に持つ誘導用の旗を指差した。角が潰れて色もくすみ、ぼろぼろだ。
「それ」
「飽きないよ。もし、おれがいきなり飽きて、旗を振るのをやめたらひどいことになるだろ。車が突っ込んで来ても、棒立ちだぞ」
おれがまっすぐ姿勢を伸ばすと、打田は笑った。その笑い方はいつも通りだが、どこかひっかかりが残っているというか、ぎこちない感じもある。そういう機微を察知したいときは、聡一が同じぐらいの年だったときのことを思い出そうとするが、打田や石森のそれは、はるかに分かりにくい。笑いが収まった後、打田は背負ったランドセルを左右に振りながら、呟いた。
「飽きないでいてほしいな」
おれはうなずくと、あちこちに配っていた目線を止めた。打田からは死角になっている対角線側に、同じ色の旗を持った羽村がちょうど来たところだった。どこからか強引にねじ込まれてきた不愛想な男で、それだけなら構わないのだが、誘導もろくにせず、行き交う学生や子供たちを目でずっと追いかけている。三十代で、資産家の息子らしい。去年からあの男が仲間入りして、体感治安はずいぶんと悪くなった。
返事を待っていることに気づいて、おれは小柄な打田の顔を見下ろした。
「おれの心配はしなくていい。看板みたいなもんだよ」
「何の看板?」
「そうだな……、ピエロとか?」
子供が喜びそうな物といえば、それぐらいしか思いつかない。おれが咄嗟にひねりだしたことを悟ったのか、打田はふっと笑ってから首を伸ばした。
「あ、奈緒。おはよー!」
石森が交差点の白線の少し手前で止まり、打田に手を振った。止まり方も様々だ。白線ギリギリで止まる子供や、少しだけ内側に引いて点字ブロックを踏まない子供。評価をつけるつもりはないが、その頃から差はついている。この二人は真面目で、両方が飼育係。車用の信号が赤に変わり、急ブレーキを踏んだトレーラーが車体を揺すりながら停まったことを確認してから、おれは旗を前へ出して横断歩道を歩きだした。打田と石森は早口で何かを話しこんでいて、もう内容は聞き取れない。二人が、旗を下げたままぼうっと立つ羽村のすぐ横をやり過ごすとき、おれは羽村の顔をじっと見つめた。指定の蛍光ベストではなく、大きな白いロゴが入ったブルーのジャンパー。あの年齢で逆らうことがステータスやプライドを守っているのなら、それはそれで中々寒い話ではある。
じっと見ていた効果があったのかは分からないが、とりあえず羽村は、打田と石森が通り過ぎるときに目で追わなかった。これから、何百人と登校してくる。そうなると、もう羽村に目を光らせることはできない。考えたくはないが、打田と石森が早起きをしたのは、羽村が出てくる時間帯より前に通り過ぎるためだろうか。おれは元の交差点に戻ってからも、それとなく羽村を観察し続けた。
十五分ぐらいが過ぎて、ありとあらゆる集団が一定の間隔で横断歩道を渡るようになってから、教育実習生が現れた。柚本セイラ、二十歳。こっちには、話しかけるでもなく周りをそれとなく固める、高学年の男子たちがいる。柚本は自分の背中に熱い視線が注がれていることに気づいているだろうが、何も気にしていない。むしろ、気にしなさすぎに思える。こっちは羽村とは逆に、子供を見るときの目は醒めていて、常に終わりを待ちわびているようにそそっかしい。
「おはよーございます」
親から継いだ駄菓子屋は子供のたまり場で、収入源には全くなっていない。ほとんどは妻の佐夜子に店番を任せている。近所の子供の間では、枝川商店という堅苦しい名前は略されて『エダショー』と呼ばれているらしい。本業は、駅前の猫の額ほどのスペースで経営するとんかつ屋『とん八』だ。数字の八は、ちょうど開業した十五年前、中学校でバスケをやっていた聡一の背番号から取った。三十歳手前になった聡一は結婚して、今は隣の市に住んでいる。そうやって子育てが終わったら、隙間をすかさず埋めるように、他の子供の世話を任されることになった。
枝川利文、還暦目前。体格は元々大きく、腕力にも自信はあるが、骨の継ぎ目はあちこちガタだらけだ。
小学校のバスケ部にも顔を出すように言われているから、聡一を育てているときよりも今の方が忙しい。繁華街が近くてお世辞にも治安がいいとは言えないから、子供が事件に巻き込まれないよう親が神経質になるのは当然だ。聡一は、中学校に上がるころには大人顔負けの体格をしていたから心配はなかったが、こうやって通学路に立っていると、ほとんどの子供というのは弱々しくて、行動も危なっかしい。一番多いのは声掛け事案で、下校時は十分単位で危険度が増していく。どれだけ集団下校を徹底しても、はぐれる生徒は必ずいる。
色々と考えている内にビルの谷間がオレンジ色の光線を放ち、昇り始めた朝日が目を刺した。太陽は、どんな事情を抱えた人間であろうと、同じ角度から同じ色に染めていく。
「街が生きてらあ」
思わず呟いたとき、真後ろでくすくす笑う声が聞こえて、おれは振り返った。六年生の打田歩花がランドセルを背負いなおしながら、復唱した。
「街が生きてらあって、ははは。なにそれ」
「これから人が動き出して、一日が始まるってことだよ。早起きだな?」
「奈緒と約束してるから。あっ、今日は帰りエダショーに寄りたい」
「ご来店ありがとうございます。五人ぐらいで、一緒に行くんだぞ」
おれが言うと、打田は首をぶんぶんと横に振った。
「そんなたくさん、友達いないよ」
打田の親友は、石森奈緒。体操をやっていて、お母さんはPTAの一員。こっちの仕事は交通の安全を確保することだけだから、交遊関係を知ろうとは思わないが、子供はすれ違うだけの数十秒で、大人の会議一回分ぐらいの情報を早口で詰め込んでいく。
「最近、黒いバイクの人いなくなったね」
通学路を時速百キロ近いスピードで突っ走る、黒のヤマハMT−09。ライダーは、近所のワンルームマンションに住む大学生の男だ。いなくなったのには、理由がある。三ヶ月前、駐車車両に突っ込んで死んだ。しかし、そんなことは打田の耳には入れたくない。
「飽きたんだよ」
おれが言うと、打田は片方の眉をひょいと上げて、背伸びしながら石森の姿をきょろきょろと探した。そして、静かに体ごと後ろに下がった。
「エダショーは飽きない?」
「店じゃなくて、おれがエダショーなのかよ。飽きるって、何に?」
打田は、おれが手に持つ誘導用の旗を指差した。角が潰れて色もくすみ、ぼろぼろだ。
「それ」
「飽きないよ。もし、おれがいきなり飽きて、旗を振るのをやめたらひどいことになるだろ。車が突っ込んで来ても、棒立ちだぞ」
おれがまっすぐ姿勢を伸ばすと、打田は笑った。その笑い方はいつも通りだが、どこかひっかかりが残っているというか、ぎこちない感じもある。そういう機微を察知したいときは、聡一が同じぐらいの年だったときのことを思い出そうとするが、打田や石森のそれは、はるかに分かりにくい。笑いが収まった後、打田は背負ったランドセルを左右に振りながら、呟いた。
「飽きないでいてほしいな」
おれはうなずくと、あちこちに配っていた目線を止めた。打田からは死角になっている対角線側に、同じ色の旗を持った羽村がちょうど来たところだった。どこからか強引にねじ込まれてきた不愛想な男で、それだけなら構わないのだが、誘導もろくにせず、行き交う学生や子供たちを目でずっと追いかけている。三十代で、資産家の息子らしい。去年からあの男が仲間入りして、体感治安はずいぶんと悪くなった。
返事を待っていることに気づいて、おれは小柄な打田の顔を見下ろした。
「おれの心配はしなくていい。看板みたいなもんだよ」
「何の看板?」
「そうだな……、ピエロとか?」
子供が喜びそうな物といえば、それぐらいしか思いつかない。おれが咄嗟にひねりだしたことを悟ったのか、打田はふっと笑ってから首を伸ばした。
「あ、奈緒。おはよー!」
石森が交差点の白線の少し手前で止まり、打田に手を振った。止まり方も様々だ。白線ギリギリで止まる子供や、少しだけ内側に引いて点字ブロックを踏まない子供。評価をつけるつもりはないが、その頃から差はついている。この二人は真面目で、両方が飼育係。車用の信号が赤に変わり、急ブレーキを踏んだトレーラーが車体を揺すりながら停まったことを確認してから、おれは旗を前へ出して横断歩道を歩きだした。打田と石森は早口で何かを話しこんでいて、もう内容は聞き取れない。二人が、旗を下げたままぼうっと立つ羽村のすぐ横をやり過ごすとき、おれは羽村の顔をじっと見つめた。指定の蛍光ベストではなく、大きな白いロゴが入ったブルーのジャンパー。あの年齢で逆らうことがステータスやプライドを守っているのなら、それはそれで中々寒い話ではある。
じっと見ていた効果があったのかは分からないが、とりあえず羽村は、打田と石森が通り過ぎるときに目で追わなかった。これから、何百人と登校してくる。そうなると、もう羽村に目を光らせることはできない。考えたくはないが、打田と石森が早起きをしたのは、羽村が出てくる時間帯より前に通り過ぎるためだろうか。おれは元の交差点に戻ってからも、それとなく羽村を観察し続けた。
十五分ぐらいが過ぎて、ありとあらゆる集団が一定の間隔で横断歩道を渡るようになってから、教育実習生が現れた。柚本セイラ、二十歳。こっちには、話しかけるでもなく周りをそれとなく固める、高学年の男子たちがいる。柚本は自分の背中に熱い視線が注がれていることに気づいているだろうが、何も気にしていない。むしろ、気にしなさすぎに思える。こっちは羽村とは逆に、子供を見るときの目は醒めていて、常に終わりを待ちわびているようにそそっかしい。
「おはよーございます」