Scythe
「こないだ、ピエロの看板って言ってたでしょ。わたしはそれでいいと思ったけど、奈緒は弁慶の看板がいいって」
「難しい名前を知ってるんだな」
おれが言うと、打田は自分以外の人間が褒められたことが気に食わないようで、顔をしかめた。
「だから、どっちか選んでほしい」
二つしか選択肢がないのは気になるが、おれは辺りを見回してから、言った。
「弁慶ピエロでいくか」
打田の表情がパッと明るくなり、タイミング良く石森が現れた。柚本が同時に赤信号で足を止め、珍しく三人が揃った状態になった。柚本はスマートフォンを見ていて、周りに誰がいるかなど、全く気にしていない。反対側には、いつものブルーのジャンパーではなく蛍光ベストを着た羽山が現れた。柚本は誰とも話す気がないようで、青信号になるのと同時に早足で歩きだした。打田と石森は話し込んでいて動かず、信号に気づいていないというよりは、柚本を避けているように見えた。
「柚本先生は、どうだ?」
打田は頭を横に振りながら、言った。
「あの人は、ダメだと思う。先生って感じじゃないもん」
「なんか、男子とばっかり喋ってるし。ミホちゃんが化粧の仕方を聞いたときも、やってあげてさ。それでミホちゃんは体育のときに先生に怒られてたんだけど、その様子を遠くから見て、げらげら笑ってた」
石森が早口で喋り、打田がさらに追い打ちをかけてからは、二人の早口に耳が追いつかなくなった。柚本は横断歩道を渡り終えて、羽村が蚊の鳴くような声で挨拶をしたのを無視して、そのまま歩いていった。
「言いたいことは、いっぱいありそうだな。それにしても、なんでこんなに早起きなんだ?」
おれが訊くと、打田と石森は笑い合って身を引いた。おれはそれ以上追及せず、旗をくるくると回した。安全であれば、何も言うことはない。しかし、羽村の過去を知った今は、集団登校に紛れてほしいという気持ちの方が強い。
同じ時間に、打田、石森、柚本と羽村が全員揃った日から、二日が過ぎた。
午後九時半の閉店時間を過ぎて、『とん八』と書かれた暖簾を巻いていると、マナーモードにしている携帯電話が光った。短い時間に、桐下から十五件着信が入っていた。おれがかけなおすと、桐下が雑音だらけの声で言った。
「大変なことになった。早く来てくれ。廃材置き場だ」
おれはレジを締める作業を後回しにして、自転車で向かった。息が上がる直前にパトカーの回転灯がいくつも見えて、上着を脱いでワイシャツ姿になった桐下が救急車の隊員と話しているのが見えた。警察官のひとりが振り返り、『とん八』の店主だと気づいたらしく、小さく頭を下げた。桐下が気づいて振り返り、おれに手を挙げた。
「枝川さん、こっちだ」
おれは早足で駆け寄った。パトカーは八台、救急車は一台。回転灯の赤い光が、雑に積み上げられた鉄骨のシルエットを影絵のように切り抜いている。その真ん前には、ブルーシートをかけられて横たわる人影。
柚本セイラの死因は、二十二箇所の刺し傷ではなく、脳挫傷だった。顔の骨は左側が粉々に折れていて、馬乗りになって抵抗もできずに殴られ続けたのだろうと、警察官は言っていた。
まだ起きていない街の、しんと冷えた空気。昔から、その冷徹さが好きだった。一日の始まりに相応しい、日の出前。小学校に勤める教育実習生が殺されて、二週間が経った。そして一昨日、数県跨いだ先で匿われていた羽村が警察に発見された。柚本の爪に残っていた繊維と、羽山の愛用していたブルーのジャンパーが一致したことから、重要参考人とされていた。問題は、車で逃げた羽山が運転を誤り、川に落ちて死んだことで、動機すら分からなくなってしまったことだ。衝動殺人なのか、初めから殺してやろうと思っていたのか。つきまといの前科があるから、ワイドショーでは後者が有力な説になっている。
『今思えば、あれが相談でした。朝で忙しかったのもありますが、この人は真面目に聞いてくれないって、思ったのかもしれません』
それが、柚本と短いやり取りをしたおれの本音で、そのままを警察に語った。
『いやあ、それだけで、ここまでなるとはね。想像つかなくても、無理はありませんよ』
警察官は調書を作りながら、起きたこと全てに対して愛想をつかしたように、そう言った。
小学校のお通夜のような雰囲気は、見ていられない。打田と石森も事件直後は真っ青な顔をしていて、早起きの習慣も集団登校でお開きになった。早く元通りになればいいが、こればっかりはどう声を掛けていいか分からない。
「おはよーございます」
突然、後ろから二人分の揃った声がかかって、おれは振り返った。打田と石森が立っていて、打田は手を後ろに回していた。
「おはよう。早起きコンビ復活か」
おれが笑顔を作ると、打田が後ろに隠していた手を前へ出した。
「これ、どうぞ」
真新しい旗で、柄のところに『べんけいピエロ』と手書きの署名がある。おれはそれを受け取りながら、呟いた。
「作ってくれたのか?」
「そのために早起きしてた」
石森が言い、打田も胸を張った。おれは何も言えずに、立ち尽くした。
「わたしたち、もう早起きはしない」
打田が宣言するように言い、頭の中が旗でいっぱいになっていたおれは、何とか返事を絞り出した。
「二人とも、ありがとう。大事に使うよ」
新しい旗を振りながら、青信号に変わった横断歩道を渡り、おれは二人を見送ってから、元の持ち場へ戻った。平和は、確かに戻ってきた。酷い事件があっても、街は生きている。おれからすれば、最も大事なのは、この町に住む真面目な人間たちだ。桐下のように定年を迎えても社会に関わり続ける人や、打田と石森のように、これから大人になっていく子供たち。全てを大切に思っている。
そういう光のような存在と比較するから、例えば黒いバイクのライダーのような人間は、余計にゴミに見える。人に迷惑をかけるために生きているような連中。実際、街灯がひとつ球切れになって視界が悪くなっていただけで、駐車車両に激突するような、危なっかしい運転をしていた。
あの手の街灯は、パチンコで簡単に割れる。和を乱す人間の行き先は大抵、一度入ったら最後で、もう口が利けない場所だ。街灯を割る行為自体が軽犯罪だとしても、平和で安心して暮らせる街のためなら、好き嫌いなど言っていられないし、手は抜けない。
羽村が愛用していた、白いロゴ付きのブルーのジャンパー。あれは、いつも原付のカゴに丸めて入れられていた。本人は失くしたと思っていただろうが、おれがこの町にいる限り、そんな偶然は起きない。
打田と石森からもらったばかりの『べんけいピエロ』と書かれた旗。まさに、宝物だ。これを振るだけで安全を守れるのが理想だが、そうはいかない。無心にトンカツを揚げているだけで済むなら、どれだけいいか。
自分が何の看板かということを打田に聞かれたとき、咄嗟にピエロと答えたのは、底抜けに楽しい存在だと思っていたからだった。しかし、石森の意見は違うようだった。
ピエロというのは、夜に見ると結構怖いらしい。