黒薔薇研究会の真実
パチンコというものを、ゲームだと思って楽しんでいた。実際に、
「勝ち負けは、むしろどうでもいい。好きな機種を楽しめればいい」
ということで、勝ち負けに関しては、
「負ける時もあれば勝つときもある」
ということで、
「最初から一日、いくら」
という遊び台は計算に入れていて、
「勝ち負けの相殺というものが、その範囲内であれば、よしとしよう」
と考えていたのだった。
だから、依存症と言われても、自分では、
「計算しながらやってるんだから。問題ないだろう」
と思っていた。
ただ、実際には、貯金を少しずつであるが、食い潰していっているのは、無理もないことで、
「貯金通帳が、キャッシングの域に入っていて、マイナスだったこともあった」
というくらいであった。
それでも、月に半分くらいマイナスになっても、バイトの給料が入ればプラスになるので、
「それはそれでいい」
と思っていたのだった。
だが、借金であることにはかわりなく、ちょうどそんな時に、
「世界的なパンデミック」
と、
「受動喫煙防止法」
というものが、一緒に来たのだから、パチンコ屋はたまらない。
しかし、そのおかげで、佐伯は、パチンコというものに対して、冷めた気分になったことで、
「依存症」
と言われていたものから、解放されるということになったのであった。
パチンコ屋としては、佐伯のような人が多かったのか、
「客はどんどん減ってきていて、以前であれば、開店時の入場を、抽選しようと並んだものだが、今は開店しても、一部の機種に人が集中するくらいで、ほとんどの台、島というのは、閑古鳥が鳴いている」
と言ってもいいだろう。
それが、今のパチンコ業界の姿」
というものであり。
「機種制限であったり、世界的なパンデミック。さらには、受動喫煙禁止法などと言ったタバコの関係」
などというものが、一気に来たということで、
「パチンコ人口というものは、どんどん減ってきている」
と言ってもいいだろう。
それを思うと、パチンコ業界でも、大きなチェン店が倒産するというのも、分からなくもないというものである。
ただ、佐伯は、パチンコをしている間、どうしても借金ができてしまった。実際に返せないような借金ではないが、気が小さいせいか、ちょっとした借金でも、怖くなるのであった。
それだけに、返済を催促してくる貸主に、一時期恐怖を覚えていた。
「殺さないと殺される」
というところまで、自分の中で追い詰められていると思っていたのだ。
佐伯の悪いところは、自分が悪いことであっても、それを、追い詰められたなどと、すべてを自分が悲劇のヒーローであるかのように考えて、
「人を殺したくなっても、それはそれで仕方のないことだ」
というくらいにまで思いつめていたりしたのだった。
実際にできるわけはないので、
「妄想の中でくらいはいいだろう」
ということで、
「黒薔薇研究会に入った」
のだ。
このサークルは、佐伯のように、気の弱い人もいれば、
「自分でミステリーを書きたい」
と思っているので、その研究、あるいは、ネタ調達という意味で、このサークルを利用しようと思う人もいた。
一人一人、目的も違えば考え方も違う。
それでも。
「殺し方」
という考えで、一つにまとまるというのは、意外にあることのようで、実際に、
「それが面白い」
と言ってもいいだろう。
人を殺すということは、本来であれば、
「気が小さい人間」
ということであれば、怖くて考えられないだろう。
しかし、佐伯はそれができた。
だとすると、実際に、気が強いということになるのかというと、そんなことはない。
そう考えると、
「一周まわって、元に戻ってきた」
というだけで、
「本当は怖い」
ということになるのだろう。
そんなことを考えていると、
「マイナスにマイナスを掛けると、もれなくプラスになる」
ということであろう。
これがもし、
「×ではなく+だったとすれば、マイナスになる可能性もある」
ということで、
「積除算に勝るものはない」
と言ってもいいかも知れない。
気が弱い佐伯だったが、妄想しているうちに、感覚がマヒしてきたのか、考え方が、恐ろしい方に向いている」
と言ってもいいのかも知れないと感じるのだった。
「いろいろ妄想しているうちに、次第に殺害の発想が膨らんでいき、自分は、殺害方法をヵンが得る天才ではないか?」
とまで思うようになった。
うぬぼれと言ってもいいのだろうが、それよりも、
「これだけ発想が膨らむだけの才能があるのであれば、パチンコなんか辞めて、もっと他に自分の才能を生かせるようなことで、パチンコ台に投資した分を回収できるかも知れない」
とも思うのだった。
そう思うと、
「パチンコなどうつつを抜かしたことによって、今までの時間がもったいなかった」
と思ったのだ。
そこで、
「せっかく殺害方法を考えるサークルに入ったのだから、小説でも書こう」
と思うようになった。
発想はいくらでも浮かんでくる。
「感覚がマヒしてくる」
とさえ考えればいいのだ。
元々、小説を書けないと思ったのは、
「リアルが頭に浮かんできて、人を殺すなど、想像もできないからだ」
と思ったからであった。
しかし、実際に、感覚がマヒしてくるという自分の性質に気づいてくると、
「だったら、いくらでも、リアルの発想を生かすことができる」
と気づいたのだ。
だから、
「俺は、小説の中で、たくさんの死体をゴロゴロ転がし、血の海に沈めるというくらいのことは、簡単にやってのける」
というくらいに考えたのだった。
探偵小説というのは、誰が何を言おうとも、
「実際にやらなければいいんだ」
ということである。
中には、
「お前がそんな小説を書いたから、それを模倣した犯罪が起こる」
という人もいるかも知れないが、これはあくまでも、エンターテイメントであり、普通に教育を受けた人であれば、
「実際に犯罪を犯したとすれば、それが何を元に下と言っても、それで刑罰が軽減されるわけではない」
ということである。
だから、誰が、
「犯罪を、助長させた」
と言ったとしても、その責任を問う必要はないだろう。
今の日本には、
「言論の自由」
「表現の自由」
というものがあるのだ。
確かに、被害者の家族ともなれば、犯罪を助長する書物に恨みを持つこともあるかも知れない。
しかし、だからと言って、
「本来なら、犯罪を犯す奴が悪い」
というわけで、
「あくまでも、フィクションだ」
と謳っているのだから、それを無理矢理に、
「犯罪を生み出した」
などということにするのであれば、小説などというのは、ありえないと言っても過言ではないだろう。
だから、佐伯は、刺殺という内容をミステリーに書いた。
これも、
「足が付きやすい」
と言ってもいい。
必ず、動機のある人間が犯人であるということになるだろう。