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イン・シトゥ

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 僕は研究棟の男子便所で用を足していた。用を足し終えると、ズボンのチャックを締め、それからベルトを締め直す。水道の蛇口を開け、手を洗う。ハンドソープを出し、念入りに手の甲から指先、指の間まで洗う。それから、鏡に映る自分の顔を見る。ひどく疲れた顔をしている。
 
 “そこで僕は気がつく。ここは夢のなかだ”

 二人が言ったように突然に始まった。だが、些細な違和感だ。眠りに落ちて、現実から、現実に限りなく近い夢のなかに継ぎ目なく移行した。早く、自分の身体にこの場所について刻まなくてはと思う。僕は急いで男子便所から出る。そうすると、目の前に僕達の研究室が見える。研究室前のトイレだったのだ。
 僕は研究室の扉まで駆け寄り、ドアノブを勢いよく回す。だが、鍵がかかっている。掲示板の裏の鍵を取り、ドアを開け、部屋のなかに入る。夢であることを常に意識しているつもりなのに忘れてしまいそうになる。僕は焦りながら、実験台に置かれているペン立てから油性マジックを取り出し、左手の甲になぐり書きで、「第2そう」と書いた。層を漢字で書く余裕はなかった。それほどに夢であるという認識が、まるで手からこぼれ落ちていく砂のように失われていくのだ。それから研究室に置かれている壁掛け時計を確認する。19時21分。ここから一時間後に紘一に起こされることになる。手の甲に「~20:21」と書いた。

 僕は亜衣との約束を思い出す。待ち合わせ場所は小動物飼育スペースだった。僕はそこに向かい、置かれているソファに腰を掛け、亜衣を待つことにした。夢の世界が他人と共有されることなんてあるわけがない。おそらく一時間誰にも会うことなく、ここで孤独に待つことになるだろう。
 僕は部屋のなかを確認する。壁2面にあるスチール製のラック、どれも現実で見たものと違いが分からない。ソファのくたびれた質感も全く同じだ。スプリングが軋む音も同じ。
 僕は改めて何が起きているのか理解できなくなる。それから、街の夢を見ることがなかったことに安堵する。もう失われた記憶を思い出す必要もないのだ。キリンに看病されることも、パンダに街を案内されることもないのだ。
 ここから一時間も一人で待つのはひどく退屈にちがいなかった。僕は一度研究室に戻り、何か本を持ってきて読書をしようかと考える。ベッドから立ち上がり、部屋の扉を開けようとした時、扉の小窓から亜衣の姿を見つけた。
「会えた」と亜衣は言った。肩から胸元までかかる艷やかな黒髪。少し眠たそうな瞳。すっとした鼻立ちと、薄い唇。白のレースブラウスに、黒の膝丈のスカート。現実で見る亜衣そのものだった。
「何じっと見ているの?」と亜衣は僕を小突いた。
「いや、信じられなくて」と僕は言った。
「本当よね。夢の世界が他人と共有されるなんて想像できないよね」そう言って、亜衣は自分の前髪をなでた。これは亜衣の癖の一つだった。手の甲には「第2層」という文字が見えた。
「でも、今は次の目的を果たしましょう。タイムリミットは一時間だから。残り四十五分くらいね」
「ああ。二階にいる二人を探しに行こう」

 僕達は研究室を出る。先程、僕が用を足していた便所の隣に階段がある。そこから下りて、二階に向かう。階段のライトは時折、明滅していた。これも現実世界と同じだ。
「こっちよ。来て」二階に下りたあと、亜衣はそう言って僕の手をとった。彼女の手の柔らかさ、温かさもまるで現実のものとしか思えない。亜衣は研究室の扉の小窓から室内を確認しつつ、眠る人がいる部屋を探す。二つほどの研究室を通過した後、足を止める。
「いたわ。女の子」亜衣はそう言って、研究室の扉を開いて中へと入った。そこには細身の眼鏡をかけた黒髪のショートカットの女の子が実験台にうつ伏せになって眠りこけていた。亜衣が肩を揺すって起こそうとするが、全く起きる気配がなかった。更に、強く揺すっても結果は変わらなかった。
「駄目そうね」と亜衣は言って、男の子の方にも行ってみましょう、と目で合図をした。また僕の手を掴み、ぐるりとロの字の廊下を周り、エレベーターを抜け、三つの研究室を抜け、曲がり角を右に折れた。また研究室の扉の小窓から部屋の様子を順々に覗いていき、彼の姿を見つけた。
 男は椅子に座り、仰け反りながら眠りこけていた。亜衣が肩を叩くが反応はない。続けて、激しく身体を揺するが、それでも反応はない。それから、紘一にしたように強烈なビンタを男にお見舞いする。瞬間、小さな呻き声をあげながら、男が目を覚ました。
「い、痛いじゃないか」と寝ぼけながら男は言った。
 亜衣はムッとしながら、「起こしてあげたの」と言った。
「気持ちよく昼寝していただけなのに」
「昼寝? 昼寝なんかじゃないわ。これは永遠の眠りのようなものよ。それに今もまだ夢のなかよ」
「何だって。いったいどういうことなんだ?」と男は言った。
「説明には時間がかかるんだ」と僕は言った。それから亜衣を見た。「亜衣、このあとはどうするんだ? 彼を起こすためには、現実世界に戻って、会議室で寝ている彼を起こす必要があるわけだよね」
「そのとおりね。だから、また昼寝されたら、たまったもんじゃないわ」と亜衣は言った。それから時計を見た。僕も時計を確認すると、一時間経過まであと二十分ほどだった。あっという間に時間が過ぎていく。亜衣は男を指差した。「いい? これから少なくとも三十分は昼寝をしないこと。それからこの研究室のなかから一歩も出ないこと。約束できる?」
「全く何なんだ。意味が分からない。突然そんなことを言われても」
「今は分からなくていい。理解する必要もない。向こう側でしっかりと説明してあげるから」と亜衣は高圧的に言い放った。
「ああ、分かった。分かったよ。言うことは聞くから、そんな声を荒げないでくれ」
「分かればいいのよ」
 僕は小さく笑いながら、二人のやり取りを眺めていた。だが、次の瞬間、僕達は決して聞きたくない音を聞くことになる。
 あの咆哮だ。外を闊歩していた、“あれ”と呼ばれる存在の咆哮だ。
「何だ、今の声は!」と男は叫んだ。亜衣と僕は顔を見合わせた。
「まずい。あれが、研究棟のなかに入って来たのか」と僕は亜衣に向けて言った。
 亜衣は腕時計を見て、「あと、十二分。十二分耐えれば、私と秋は現実に戻れるわ。問題は彼を守らなきゃ」
 咆哮は少しずつ、少しずつ、しかしながら確かに近づいてくる。一階から上がってきているようだ。
「あなた、この部屋に隠れていて」と亜衣は男に言った。「決して、出てきては駄目。私達が囮になるから」
「僕を置いていくのか?」と男は言った。男は身体を震わせ、怯えていた。
「必ず、迎えに来るから。安心して」と亜衣は言った。
「……ああ、分かったよ」

 亜衣と僕は顔を見合わせて、研究室の扉を勢いよく開けて外に出た。
作品名:イン・シトゥ 作家名:篠谷未義