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イン・シトゥ

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 だが、その瞬間である。一階から上がってきた、何者かは向こう側の曲がり角に姿を表した。現実世界でみた、“あれ”とは形状が異なっていた。“それ”は足が逆三角形のようになっており、腕は極端に短く、顔と思われる部分はザクロの断面のようで、それを顔と認識することができなかった。肌の色は、現実世界で見たものと同じで、焦げた茶褐色で紋様が施されていた。
 それは、僕達を視界に入れるや否や、凄まじい速度で向かってきた。僕達はそれの逆側に振り返り、駆け出した。鼓動が急激に激しくなる。足の筋肉が熱く膨張する感覚をおぼえる。脳内にアドレナリンが溢れ出し、時間が遅くなる感覚をおぼえる。音も小さく、スローモーションに聞こえる。後ろを振り向く余裕はない。
 だが、次の瞬間、誰かの声が聞こえる。男だ。研究室の窓から覗き込んでいたのだろう。その声を聞いて、それは歩みを止め、男のいる研究室に振り向き、躊躇なく扉を叩き壊した。僕達は彼を助けるために、訳の分からない大声を出したが、それは全く反応を示さなかった。更に近づいて、挑発を試みてみる。しかし、駄目だ。ふいに男がそれの隙間をくぐり抜けて、転びながらこちらに向かって走ってくる。かけていた眼鏡が床に落ちる。
「早く来い! 逃げろ」と僕は叫んだ。男は何度も転げながらも、こちらに向かって駆けてくる。だが、それがゆっくりと振り返り、男を視界に捕らえる。それから再び凄まじい速度で突進し、男はまるでトマトを地面に叩きつけたかのように潰された。一瞬だった。それの身体には赤黒い何かが付着し、血が滴り落ちる。
「嘘!」と亜衣は叫んだ。僕は彼女を抱きかかえた。「次は僕達の番だ。今は逃げるしかない」と言った。時計を見る。あと、二分。僕と亜衣は意識が朦朧としながらもひたすらに走る。突き当りの壁を曲がる。それから直進。また曲がり、更に直進。
 だが、それは咆哮を上げながら諦めることなく追ってくる。たった二分なのに、時間が無限のように感じられる。また曲がり角。さらに直線を全速力で走る。それも壁に衝突しながら迫ってくる。瞬間、僕と亜衣は足を絡ませて転倒する。振り返ると、それは目の鼻の先にいる。ただ、その瞬間、亜衣の身体が空間から消えていった。
「迎えが来た! 亜衣、先に戻ってくれ」と僕は叫んだ。
「秋くんも!」
「大丈夫。すぐ行く」亜衣が消えたことを確認し、僕は反動をつけて勢いよく起き上がり、駆け出す。さっきよりも速く、速く。角を曲がり、階段を見つける。そこから一階へと駆け下りる。二段、三段飛ばしで駆け下りる。だが、それは追うのを止めない。

 僕は一階に降り立つ。ロビーのある場所だ。両サイドに出口がある。僕は右側の出口に向けて駆け出す。すぐ紘一が起こしてくれるはずだ。先に戻った亜衣も起こすのをきっと手伝ってくれるはずだ。僕はロビーの玄関に向けて全速力で駆ける。筋肉は絶え間ない運動により悲鳴を上げている。酸素が足りず、頭がぼうっとする。しかし、一向に迎えが来ない。いったいどういうことだ。
 ついに玄関に辿り着いてしまう。そして、僕は絶望する。何故なら、玄関はデスクや椅子によりバリケードが組まれていたからだ。行き止まりだ。
 僕は振り返る。そこには、それがいる。赤黒い何かを身にまといながらそこにいる。その赤黒い何かはトマトじゃない、あの男を構成していた何かだ。僕の胃の中から何かがせりあがるのを感じる。
 ふいに、それの頭部と思わしき部分が、わなわなと震え始める。そして、間髪を入れず僕の身体めがけて、突進してくる。瞬間、ぐちゃりという音を立てながら、僕のなかへとめり込んでくる。視界が赤と黒で激しく点滅し、痛さというよりも熱さともいえるような感覚が全身に伝播する。
 僕もあの男と同じように地面に叩きつけられたトマトのようになってしまったのだろうか。そう思いながら、目の前に広がる視界が赤と黒から、黒だけになっていった。

作品名:イン・シトゥ 作家名:篠谷未義