イン・シトゥ
第十章 孤独に飢えるなんて、ずいぶん贅沢な悩みじゃないか
僕たちは鷺沢の背中を追って、病棟の廊下をひたすらに歩いていく。病院特有の消毒液のようなツンとした香りが鼻腔をくすぐる。クリーム色の壁、無機質な部屋のドア、まったく代り映えのない光景だ。真っすぐ進んでいき、突き当りを右に折れると、いくつかの診察室が並んでいるのが目に入った。
「ここだ」と鷺沢が言った。「各個人、一つの部屋で眠りにつくようにしている。ただ、私と芹澤先生で土人との戦いを経験したあと、少し独断で変更を加えている。万が一のことに備え、外から鍵をかけておくにしたんだ。土人となった時は脅威だからな。また、内鍵は簡単には開けられないように細工してある。人としての知能があれば、直ぐに目に付くデスクに置いてある工具で開けられるようになっている。土人は今のところ、知能は高くないようだからな。この鍵の封鎖でも一時的な効果はあるだろう。また仮に自身で目覚めた場合も人としての知能があれば自力で抜け出せる。一応、これが今できる精一杯の対処だ」
それを聞いて、なかなか理にかなった対応だと僕は思った。仮に土人に変容することがあったとしても、大切な仲間を襲うことはない。いや、襲うまでの時間を稼ぐことはできるだろう。しばらく思案し、僕はあることに気がつき、鷺沢に質問を投げかけた。
「そういえば、入院患者さんの病棟はどうしているんですか?」
「これも土人との対峙があってから、封鎖するようにした。前にも話したが、この大学病院は六階以上がすべて病棟だ。およそ700人近く患者がいる。これまでに、土人化していないのが奇跡的なのだが、これから何が起きるか予想もつかない。そこで、いったん病棟は封鎖したんだ。エレベーターは動いていないから良いが、階をつなぐ階段はバリケードで封鎖した。また、残念ながらすべての病室には対応できなかったが、仮に誰かが土人として目覚めても、他の患者を襲わないように、簡易的な鍵も設置してある。あくまで気休めだがね」それから、鷺沢は小さなため息をついた。「我々の状況は改善しているようには思えない。むしろ大きく悪化している。患者を助けられるのがいつになるのか皆目検討もつかない。我々十数名が生きていくだけで精一杯だ。人の命を助けるのが私たちの使命なのに、自身の命を繋ぐことしかできないのは、本当に歯がゆさを感じる」
「こんな状況ですし、仕方がないと思います」と僕は言った。そう言ってから、ありきたりの返答だと思って、自己嫌悪した。慰めにもなっていない。医師としての使命感と正義感が人一倍強い彼女が感じている苦悩は、きっと想像以上だろう。
「ありがとう。そう言ってくれると心が軽くなるよ」鷺沢は小さな笑みを浮かべた。それから振り返って、診察室を指さした。「ここには診察室が十室並んでいる。ここを眠る場所にしているわけだ。四村班は201~205室にいる」
各部屋の引き戸の取っ手には鍵穴があった。「鍵は、これだ」と鷺沢は僕たちに見せた。「二人は私と一緒に四村を起こそう。柴村と笹木はこのスペアキーを使って他の四人を頼むよ」そう言って、鷺沢は二人にスペアキーを渡した。
柴村と笹木は短く返事をして、そそくさと作業に取り掛かった。僕たちは鷺沢について、四村の眠る診察室のなかに足を踏み入れた。壁は淡いブルーで統一されており、静かで落ち着いた空間となっていた。中央には、年季の入った診察台が置かれ、その横に小さなベッドが置かれていた。そして、そこに鷺沢と同年代くらいの男が眠っていた。鷺沢は掌の甲で、男の頬を小突いた。何度か繰り返すと、男は小さな呻きを漏らした。重たそうなまぶたをゆっくりと開け、夢から現実に少しずつ回帰していく。寝ぼけ眼だ。意識が覚醒するまで、僕たち三人は見守る。それから男はゆっくりと上体を起こし、鷺沢に目を向けた。
「ああ、鷺沢か」と四村は言った。ややパーマのかかった黒髪。意思の強そうな瞳と、すらっとした鼻筋。整った顔立ちだ。彼は壁に掛けられた時計に目を向け、それから笑った。「あいかわらず、きっちり八時間で起こすなあ。たまには適当にすることを覚えないと息が詰まるぞ、鷺沢」
「むしろ、お前がテキトーすぎるんだ。たまには律儀にすることも覚えろ。それに、また探索で笹木に何かをお願いしたみたいだな」
「お、そうだった! 笹木いるか?」と四村は声をあげた。
「いますよ!」笹木はそう言って、すぐに部屋のなかに入ってきた。それから、上着のポケットから何かを取り出し、四村に手渡した。それは煙草だった。緑と白を基調としたパッケージ。マールボロ・メンソールだ。
「助かる!」四村はそう言うと、胸ポケットにしまった。
鷺沢は呆れ顔で「医師として、煙草は控えるべきだろう」と言った。
「減煙はしていたんだがね。こんな世界だし、少しくらいは良いだろう? 吸うと頭が冴えるんだよ。この眠りの機構に気づいたのも、俺の冴えた勘だっただろう?」
鷺沢は押し黙った。
「ただ、そこから三交代制システムを思いついたのは、嫌煙家の鷺沢先生だけどな。ありがたいシステムだ。八時間、ゆっくりと眠りにつくことができるからな」それから何かを思い出したかのように笑った。「鷺沢班が三人だけっていうのは、ウケたけどな」
「起きてそうそう、やかましい男だ」と鷺沢が言った。しかし、これも二人の間で行われるいつものやり取りのようだった。険悪に見えて、和やかな雰囲気が漂っていた。
四村は冗談まじりの笑いを沈めてから、僕と亜衣に一瞬目を向け、それから鷺沢に声をかけた。「どうやら仲間が増えたみたいじゃないか? 俺たちが寝ている間に何かが起きたみたいだな。パプリカする前にまずは状況報告って感じか?」
「ああ、そうだ。場所を移動しよう」
外来受付の広々とした空間の一角。ベージュ色のソファが複数配置されている。クッションはそこそこ厚みがあるものの、多くの人が座り続けたことで、ややへたり気味だ。ソファの周囲には、木目調の小さなサイドテーブルがいくつか置かれ、その上には健康情報や病院のパンフレットが無造作に積まれていた。
鷺沢班と四村班はそれぞれ向かい合わせに座った。柴村は紘一の様子を確認しにいくということで、一旦この場所を離れた。去り際に、僕と亜衣に対して「容態は安定しているから心配しないで」と声をかけてくれた。
鷺沢が、まず僕たち二人の紹介と、ここにいる経緯について簡単に説明した。それから、鷺沢班と芹澤班が覚醒している時に、土人という異形の存在が生じたことも説明した。四村は神妙な面持ちで黙って聞き入っていた。
「それは……大変だったな」と四村は呟いた。「鷺沢、責任は感じるなよ。お前はその時にできることをしっかりやったんだ。責任に感じることは一切ない。俺はお前を労うさ」
「そうはいかない」
「鷺沢、そういうところだぞ。自分に厳しすぎるんだ。誰も君を咎めることはしない」そう言い終えると、四村班の四名も深く頷き、鷺沢に励ましの言葉を投げかけた。しかし、鷺沢は表情を変えずに黙っていた。