イン・シトゥ
第九章 キックとパプリカ
無機質な蛇口をひねると、シャワーヘッドから飛沫がほとばしる。冷たい水が徐々にお湯へと変わっていく。僕はシャワーのなかに身を置く。頭から体、そして足へと雫が滴り落ちていく。温かさに全身が包まれ、満たされていく。
身体を洗うのは実に六日ぶりだった。僕にこびりつき、まとわりついていた汗は見事なまでに洗い流され、排水口のなかへと吸い込まれていった。後頭部に作られた傷は瘡蓋となっており、固まった血は再び溶け出し、流されていった。そういえば頭に包帯を巻いていたはずだが、知らない間にどこかにいってしまったようだ。偶人―いや、この場所にいる限りは土人と呼ぶべきだろうか―と対峙した時に外れてしまったのだろうか。
ここは病院に設置されている夜勤スタッフ用のシャワー室だ。鷺沢が僕達の汚れた姿を見兼ね、勧めてくれたのだ。紘一は残念ながら、そのまま病室へと直行することになった。
全身に受ける温かい飛沫は、僕の疲弊した心と体を癒やした。たったの数日間で、本当に信じられないような出来事が目まぐるしく起きた。僕達は常に混乱し続け、休まることなどなかった。だからこそ、せめて今だけでも、現実を忘れていたい。
シャワー室を出て、鷺沢が用意してくれた新しい服に着替える。それから、病棟の廊下にあるソファに座り、ほてった身体を涼めた。しばらくすると、女性用シャワー室から亜衣が出てきた。
僕の姿に気がつくと、気持ちよかったね、と亜衣は言った。
「久しぶりのシャワーだったからね。生き返ったような心地だ」
「そうね」
僕は頬を緩めた。「新しい服にも着替えられたし、鷺沢さんには本当に感謝だね」
僕たちが着ていた血や泥で汚れた服は捨てることになった。代わりに鷺沢が新しい服を支給してくれたのだ。ただそれは、これから行う街での物資探索に付き合うことが条件となっていた。芹澤が、次の探索は鷺沢班だけで、と言っていたが、鷺沢はそれを律儀にも守ろうとした。しかしながら―話を聞いた時には驚いたが―鷺沢班には鷺沢と、薬剤師と看護師の二人しかいなかったのである。班とは言うが、実質的には三人組だ。
看護師の女性が言っていたが、どうやら三班へのチーム分けの際にも、芹澤が色々と文句を付けたらしい。それで鷺沢班が三人、芹澤班が七人、残りの一班が五人という不平等極まりない構成になったということだ。ただ、残りの一班のリーダーが鷺沢を見兼ね、場面によっては自分の班から人員を貸していたということらしい。
しかしながら、その班は現在睡眠中なので、力を借りることができなかった。そこで、僕達二人が即席のメンバーとなった。シャワー、着替えと引き換えで、と鷺沢は冗談めいて言っていたが、そんなことがなくても僕たちは彼女の協力はいくらでもするつもりだった。
「久しぶりのシャワーは気持ちよかっただろう?」鷺沢が僕達の姿を見つけ、声を掛けた。それから、いたずらっぽく笑った。「代償として、その分だけ働いてもらうよ。我々の食料は底を尽きつつあるんだ。いったい、我々の状況が安定するのはいつになるのか。いつ眠りに落ちた患者たちを助けられるのか。そう不安にもなるが、まずは我々が生きるための食料を確保する必要がある」
「食料は何処から確保するんですか?」と僕は訊いた。
「それはだな……」鷺沢が言い淀んだ。それから小さく咳払いをし、まあ、非合法的にだ、と言った。
「非合法的?」
「もはや多くの者が眠りについている。勿論、罪悪感は持ち合わせているが、この世界に残されている食料は起きている者が頂く、ということだ。つまり、コンビニやスーパーから食料をくすねるということだよ」
「なるほど」と僕は言った。「ただ、仕方がありませんよね。こんなおかしな状況では」
「ああ。誰かが生きていなければ、誰かを救うこともできない」
「食料は残っているんでしょうか?」
「近場にあるコンビニやスーパーの食料確保は既に済ませていて、殆ど残っていない。だから、もう少し行動範囲を広げ、食料を探索したいと考えているんだ。ここから東に進んだ先にある小さなショッピングモール。スーパー、ドラッグストア、衣料品店などの複数店舗が集まっているような場所だ。食料の他にも、衣服なども確保しておきたい」
「どうやってそこに向かうんですか?」と亜衣が訊いた。
「病院の車がある。荷物輸送用に使うトヨタのハイエースがあるんだ。それに乗って向かう。メンバーは私と薬剤師の彼、それから君と亜衣君の四名だ。看護師の彼女には紘一君の看病をしてもらっておく」
「紘一のこと、ありがとうございます」僕はそう言って、看護師の女性に頭を下げた。
「いいのいいの」彼女は首を小さく振った。「それが私の仕事だもの。鷺沢先生の言うように困っている時には皆で協力すべきなのよ。芹ナントカみたいな、どこかの馬鹿はどうなっても知らないけれど」
「柴村(しばむら)。よせと言っているだろう」と鷺沢が窘めた。彼女は柴村というのか。そういえば、看護師と薬剤師の二人の名前はまだ知らなかった。
「はーい」と柴村は気の抜けた返事をした。きっと、これは二人のいつものやり取りなのだろう。そのような雰囲気が漂っていた。
「そういえば」と鷺沢が言った。「まだ、それぞれちゃんとした自己紹介ができていなかったな。お互いを知ることはとても大切なことだ。コミュニケーションの潤滑剤になるからね。まず私から、改めて自己紹介をしよう。鷺沢霞、この病院の研修医だ。医師免許を取得して二年目だから、いわゆる初期臨床研修医というやつだ。専門は形成外科。出身はこの街で、伊勢原市出身なんだ。小さな街ではあるが、温泉街もあったり、自然も豊かで落ち着いた雰囲気で割と気に入っているよ」鷺沢は柴村を見て、バトンタッチを促した。
「じゃあ、私ね。私は柴村歩美(しばむらあゆみ)。今はまるで警備員みたいな格好だけど、本当は看護師。この大学の看護学科を卒業して、そのまま大学病院に就職したの。今が四年目になるわね。主に形成外科の先生が担当している入院患者を担当していたわ。だから、こうなる前から鷺沢先生とは付き合いがある。出身は北海道の帯広よ」柴村が続いて、薬剤師の男に合図をした。
「じゃあ、次は俺だな」と薬剤師の男が言った。「俺は笹木和也(ささきかずや)。ここの病院薬剤師だ。医師の作成した処方箋に基づいて調剤をしたり、患者さんに薬の説明をするようなことが仕事だな。俺もこうなる前から、鷺沢先生や柴村さんとは仕事で関わりがあった。出身は横浜で、まあサーフィンが好きで、休日はよく海に行っていた。今となっちゃ、懐かしく感じるねえ」
「二人ともありがとう」と鷺沢が言った。「それじゃあ、次は君たち。自己紹介を頼むよ」
「僕は刈谷秋です。大学四年生で、この大学の理学部に所属しています。出身は静岡で、大学に入ってから一人暮らしです。それから……あの日のことですが、研究室で僕達三人で実験している最中に地震に見舞われました。しばらく外にも出ずに研究室のなかで過ごしていましたが、土人……僕たちは偶人と呼称していましたが、奴の襲撃があって紘一が負傷し、今に至るという感じです。本当に紘一を助けてくれて感謝しています」僕は深くお辞儀をした。