イン・シトゥ
第八章 積み木は積み上げれば積み上げるほどに、
僕と亜衣は担架に乗せた紘一を運びながら、病院の廊下を歩いていた。先頭はあの女性リーダーだ。声を発することなく、きびきびと前へと進んでいく。棒を手に持っていた警備隊のような二人は担架を運ぶのをサポートしてくれた。男性と女性だ。
女性リーダーはこちらに振り返り、次はこっちだ、というように首を振り、合図を出した。警備隊の二人は静かに頷いた。角を曲がり、さらに廊下を進み、もう一度角を曲がる。それから、目に入った部屋のなかに入る。
そこはよくある病院の診察室のような場所だった。患者が座るための丸椅子があり、向かいには医師のチェアとデスク、パソコンがある。壁側には無機質だが清潔に整えられたベッドがあり、カーテンが取り付けられていた。
警備隊の二人は、担架から紘一を丁寧な手つきでベッドの上に移した。紘一に些細な衝撃も与えることなく、息の合った連携だった。
「君の友達を診察させて貰うよ」彼女は僕達に向き直ってから言った。僕と亜衣は頷いた。
彼女は紘一の左側のシャツの袖を捲り、包帯を華麗な手つきで解いた。動物実験用の縫合糸により縫合が施され、かつ紫色に変色した皮膚が露出される。
「これは」と彼女は言った。「縫合は誰がしたんだい?」
「わ、私です」亜衣は慌てた様子で返事した。まるで叱られる前の子どものような声だった。
「そうか」と彼女が言った。それから笑みを浮かべて、「上手く縫えているね。下手すれば、うちの数名の外科医よりも上手い」
和ませるための冗談なのか、本当のことなのか分からず、反応することができなかった。亜衣も黙ったままだ。彼女は笑みを保ったまま、紘一に向き直り、紫色に変色した部分を静かに触れる。およそ十五センチほどの傷。下から上までなぞるように確認する。
「確かに炎症が起きている。化膿もあることを見ると、細菌性の可能性が高い。本来、裂傷には抗生剤投与は不要だ。しかし、例外があって、それは動物や人に噛まれた場合だ。この傷はどうやってつけられた?」
「偶人……。いえ、土人の頭部から生えてきた歯に噛まれたものです」と僕は答えた。
「あいつらが、動物なのか人間なのかは分からないが……」と彼女は真剣な顔で言った。「抗生剤投与をしておくのが無難だろう。この細菌が土人由来のものなのか、それとも消毒が不十分だったことによるものかは分からない。分からないが、抗生剤と解熱剤を投与しておこう。それで様子を見るしかないね」
彼女は警備隊の二人に目をやった。「ゲンタマイシン軟膏と、ロキソプロフェンを頼む」それから冗談っぽく、処方箋はないが、と付け加えた。
「分かりました」二人は同時に答えて、病室を出ていった。
「二人はいったい?」と僕は訊ねた。
「ああ、看護師と薬剤師だよ。いいペアなんだ。それから、この状況では警備も担当してもらっている」
なるほど。それにしても、この病院の状況について気になることが沢山ある。僕は質問をした。
「この病院はいったい今どのような状況なんですか?」
「見ての通りさ。まったく病院としては機能していない」と自虐的に語った。「私のような研修医ごときが、処方箋もなしに薬剤師に薬を処方させている」
僕は黙って、彼女が語るのを待った。
「ここは診療科を三十以上要するそれなりに規模の大きい大学病院だ。十四階建で六階から上が全て病棟。病床数としては約800床になる。稼働率は90%程度だから約720人が患者として入院しているわけさ。まあ膨大な数だろう?」
「今、その患者さんはどうしているんですか?」
「君なら分かるだろう? ほとんどが眠ったままさ」
「医師や、看護師は?」
「あの地震が起きた時、大きな混乱に陥った。非常に大きな地震だった」と彼女は独り言のように声を発した。「外来が始まるよりも前だったから、外来患者や診察の医師が出社していない科も多かった。病棟にいた限られた医師、看護師、薬剤師などのスタッフが各病棟を駆け回り、一人ずつ安否を確認した。自分達も大きな不安に襲われていたがね。病棟によっては、転んで骨折した者、壁や棚が倒れて、下敷きになって死んでしまった者もいた。ショックで心停止してしまった者もいた。まるで地獄だ。スタッフの数は足りず、全ての患者に対応出来た訳でもなかった。電話もネットも通じなくなり、まさしく陸の孤島で、救援も呼ぶことができなかった。外がどんな状況なのかも調べる方法がない。そして、一日が終わり、患者達の多くが眠りに落ち、スタッフも眠りに落ち、それが始まったわけだ」
「覚めない眠りですか?」
「そうだ。眠りの連鎖ともいえるもの。私含めて不眠不休で活動した者もいたが、患者や休憩に入ったスタッフがいくらたっても起きてこない。残ったスタッフも、その原因が理解できない。そうこうしている間に、二日目が終わり、眠りに囚われる者が増えていく。起こそうにも、起きない者も出てくる。どうしようもなかった」
「そして、いつ気がついたんですか?」
「三日目が始まってすぐだ。唯一起きていたのは、たったの十数名だった。不眠不休で眠らずに動き続けた者だけだ。私達は今までの状況を整理し、仮説を立てた。眠りのなかに閉じ込められているのではないか、という馬鹿げた仮説だ。それから、それを実証するための実験を行った」亜衣と紘一と同じだ。この眠りの階層の謎を疑い、それを確かめるために検証した。
「一人が仮眠し、他の者が起こす。また一人が仮眠し、他の者が起こす。これを繰り返した」
「そして、気がついたんですね。夢のなかの夢へと囚われていくことを」
「そうだ。なかなかに信じられない事象だったが、残った十数人が同じ経験をしたのだから、信じるより他はなかった。それから残った十数人で、班を分け、行動することにした」
「班とは?」
「十数人を三班に分け、まず私達の置かれた状況を立て直すことを最優先とした。八時間眠りにつき、十六時間を行動に当てる。これを三班で回すことで、休息も十分に取りつつ、二班が八時間合同で行動ができる。疲弊することなく効率よく行動できるんだ。その間に、食料の確保や患者の確認、それから病院内の設備のチェックなどを進めた。我々が安定した状態でなければ患者達も救えない。そう考えたんだ。しかも幸いなことに、あの眠りにつくと食事も排泄もなく、命が維持された。末期がんだった患者さえも、まるで健常者のように振る舞った。薬剤の投与さえも不要になった。まるで時間が切り取られて止まってしまったかのようだった。病さえも時間の進行を止め、眠りについたんだ。それが良いことなのか悪いことなのか私には分からない。ただ、状況を立て直すためには有り難かった。……しかし、それが昨日、乱されたわけだ」
「土人に襲われたんですよね? そいつは何処から現れたんですか?」
「それは……」と彼女は言い淀んだ。それから、ややあって「私が土人を生み出した」と悔やんだ表情を浮かべながら彼女が言った。
生み出した? それはいったい、どういうことだ。
僕の質問を遮るように、病室の扉が開かれ、警備隊の二人が入室した。「鷺沢(さぎさわ)先生、薬を持ってきました」と二人が同時に言った。