イン・シトゥ
地震により被害を受けた者は救急車や消防車、パトカーを呼んだかもしれない。けれども、それがどれだけ機能したのかも今となっては分からない。救急隊員、消防隊員、警察すらも被災者なのだ。それでも使命感で対応した者もいるかもしれない。地震に巻き込まれた被災者の救出に向かい、そして、圧倒的な疲労感を抱え、眠りに落ち、夢のなかへ吸い込まれた。それが、四日間続いたときには、ほとんどの人間が眠ってしまったのかもしれない。県道を走行中も人とは遭遇しなかった。ほとんどの人は、おそらく家のなかで眠っているのではないだろうか。
そう思い、車の窓から見えるアパートやマンション、一軒家を眺めた。そのなかで寝ているだろう人々の姿を想像した。彼らはやがて、土くれから作られた人間として、長い眠りから目覚めるのだろうか。それはどのような時、引き起こされるのか。しかし、考えたところでその答えには行き着かない。
ただ、今すべきことはたった一つだ。それは分かる。紘一を助けること。決して、この世界の謎を解き明かすことではない。紘一を助けるために、今の僕と亜衣はこの場所にいるのだ。
車は神奈川県中央に位置する伊勢原の市街に入り、やがて医学部キャンパスが併設された大学病院に到着する。信号にも捕まることなく、速度も出せたので、想定の二十分もかからなかった。十五分くらいだろうか。大学病院の門を見つけ、車を侵入させる。そして目の前に広がる光景に僕達は驚くことになる。
何故なら、そこには数名の若い男女が突っ立っていて談笑していたからだ。しかし、彼らが僕達を目に捉えると、皆緊張した顔つきに変わった。睨みつける者、怯えている者もいた。そのうち一人は、大学病院の入口に向かって走り去っていった。残った人は距離を取りながら、僕達を警戒している様子だ。
僕はまだ今の状況を飲み込めていないが、瞬時に僕達に敵意がないことを彼らに伝えるべきだと思った。窓を開けて、声を上げる。
「僕達はこの地震の生き残りです。この車には僕を加えて三人が乗っています。うち一人は怪我をしています。治療のためにこの病院に来たんです」
彼らは声を発することなく、どうやら何か相談しているようだった。声はこちらには届かない。
「敵意はありません」と僕は言った。それでも反応はない。何かしらの反応を促すべきだろう。
少し間を開けてから僕は言った。「僕達はあの化け物とも違います。僕達は人間です」何かしら彼らが反応すると思った。彼らを試すような質問だ。
「……確かに」と若い男が静かに口を開いた。「お前らは土人間(つちにんげん)、土人(どじん)とは違うみたいだな。あいつは話せないからな」
土人? 僕達が“偶人”と呼んでいる者と同一だろうか。土の人間というのも、あいつらを表すには適切な表現だと思った。
「……一つ質問だ。お前たち、今までどうやって起きてきた?」男が問いかけた。これも彼らにとって僕達を試すための質問だろう。
「僕達は三人います。なので、交代で眠り、起きている人間が眠った人を起こすことで対応してきました」
男がにやりと笑うのが確認できた。「このおかしな状況について、お前たちも心得があるみたいだな。取り敢えず、そこで待っていてくれ。俺達のリーダーを連れてこよう」そう言って、男は建物の中に消えていった。
「分かりました。ここでじっとしています」と彼の背中に声をかけた。リーダーがいるのか。集団で自治がなされているのか。
数名がその場所に残り、僕達を黙って監視しているようだった。彼らをよく見ると、ヘルメットを被り、手には角材のような棒を持っていた。警備を担当しているだろうか。ここにいる集団は、眠りへの対応にも気づいており、かつ組織化されているのか。
彼らは偶人―土人と呼んでいるようだが―とも接触しているようだ。まだ信用できる者たちか判断できないが、他の病院を探すとなると距離があり、時間がかかってしまう。紘一に残されたタイムリミットを考えると、ここで治療を施すのが最善だ。
しばらくすると、病院の入口から黒のTシャツとデニム、その上に白衣を羽織った若い女性が出てきた。二十代後半くらいだろうか。茶髪でゆるやかなパーマのかかったショートカット。やや鋭い眼光をしていたが、威圧感はない。美形とも言えるほどの整った顔立ちをしていた。彼女が立ち止まり、こちらに向けて声を発した。彼女がリーダーだろうか。
「起きている人間が、この場所に訪れるのは初めてなんだ。歓迎したいところだが、君達の目的をまず聞く必要がある。突然訪れた君達に不安を感じている者もいる。それを解消したいんだ。土人……いや、あの土くれのような化け物による襲撃も経験したばかりで、我々は今、混乱状態にあるんだ」
「……分かりました。僕達の状況について説明させていただきます。この車の中には僕を含めて三人がいます。この大学の理学部学生です。ですので、隣のキャンパスから来たんです」そこで一度言葉を区切った。「僕と、もう一人の男子大学生。それから女子大学生一人です。そのうち男子大学生があなたたちが土人と呼ぶ者に傷を負わされました。応急処置は施しましたが、炎症があり、高熱も出ています。抗炎症薬や解熱剤を手に入れるため、ここに来ました」
「なるほど。状況について承知した。土人に襲われたなかで、よく生きていたな。私達も、つい昨日だ。土人による襲撃を受けた。五人が戦い、三人が重症だ。今、治療をしている」と彼女は言った。「それから……私は研修医だ。専門は形成外科だが。君の友達の様子を確認しよう」
「本当ですか! ありがとうございます。どうかお願いします」亜衣が後方の窓を開けて答えた。
研修医の女は笑みを浮かべた。「君が女子学生だね。彼のことが心配だろう。皆、よく生きてここまで来てくれた。その友達を救えるように最大限努力しよう。……私達は君達を信じる。だから、君達もきっと不安には思うだろうが、私達を信じてくれ。このような状況だ。お互いに助け合いたい」
彼女には不思議な魅力があった。発せられる言葉、声のトーンに信頼を寄せることのできる確かな安心感のようなものがあった。
ふいに角材のような棒を持っていた男が、手に持つ棒を地面に置き、僕達を大仰に手招きした。
この世界ではもはや一人で生きていく術がない。一人では、眠りのなかに閉じ込められていってしまうのだ。互いに助け合い、輪をつくり、支え合う。それが今の世界では必要なことだった。
彼女は僕達を信じると、言ってくれた。だから、僕達も彼女たちを信じなくてはならない。そう決意しながら、僕達は大学病院のなかへと向かうことにした。