小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

イン・シトゥ

INDEX|17ページ/21ページ|

次のページ前のページ
 

第七章 取り残された僕たちは、棒よりも縄をえらぶ



 僕は一階の守衛室の前にいた。研究棟の出入り口は左右に二か所あるが、かつて“あれ”と呼ばれていた偶人がよく出現する陸上競技場側は避け、工学部研究棟側を選択した。
 この守衛室は、研究棟内に出現した偶人を倒すために使ったスコップとさすまたと傘が置かれていた場所だ。本来、僕達学生を守るはずの守衛はここにはいない。おそらく彼はどこかで眠りについているのだろう。この世界が大きく変容してしまったとも気が付けずに、夢のなかの夢へと落ちていったのだ、きっと。
 そこで、僕はふと思う。果たして、研究棟の外では僕達のように起きている人がどれくらいいるのだろうか、と。実は変容しているのはこの研究棟だけで、外では当たり前のような日常が繰り広げられているのではないかと。そんな妄想をした。この馬鹿げた妄想さえも、今の状況を考えるとそこまで飛躍しすぎている訳でもないのではないかと思った。
 僕は守衛室にある非常口を確認する。無機質な金属製の扉だ。電子ロック式ではなく、一般的な鍵で開けるタイプだ。おそらくこの扉の鍵は守衛室のどこかにあるはずだ。周囲を見渡す。すぐ壁側にカーテンで隠された場所を見つける。カーテンを捲くると、案の定、鍵束が置かれていた。鍵束には十数本の鍵が付けられていた。このなかのどれかが非常口の鍵だろう。それにしても、こんなにも開けなくてはいけない扉があるのか。そんなどうでもいい考えが僕の頭に浮かんだ。
 僕は非常口のノブを回し、外に出る。それから、鍵束から一つずつ鍵をピックアップし、鍵穴に差し込む。それから回す。これを繰り返した。七個目の鍵で、かちゃり、と小気味のいい音がした。
 これで僕がいない間に何者かが研究棟に侵入する心配はなくなった。そして、それは同時に僕が鍵をなくしたら、この場所に戻れなくなることを意味していた。僕は鍵束から非常口の鍵を取り外し、なくさないようにヒップポケットのなかに入れた。
 僕は外の世界を存分に眺めてみる。降り注ぐ太陽の光、それに照らされる木々、けたたましく鳴き叫ぶ蝉の声。そこには、当たり前の、いつもの夏があった。
 僕は木陰のなかを歩いていく。時折、心地よい風が吹き、僕の髪をなびかせる。偶人たちに追いかけ回されたあの出来事もまるで夢のなかの出来事のように感じられる。はたまた、まるで遠い過去の出来事のように感じられる。
 やがて、ケヤキ並木の通りに出る。そこで現実に引き戻される。目の前に大学会館があるのだが、それが完膚なきまでに崩壊しており、瓦礫と化していた。この建物は、大学創立時からある木造建築の歴史のある建物だった。ゆえに耐震強度もそれなりだったのだろう。ただ、それにしてもこの光景は地震の規模を思い知らせるには十分だった。被害のなさそうな鉄筋コンクリート造の建物も目を凝らして見ると、壁にひび割れが見えたり、いくつかのガラス窓が割れていた。やはり非常に巨大な地震がこの場所を襲ったのだ。それは夢ではなかったのだ。
 人はどこにも見当たらなかった。徘徊する偶人とも遭遇しなかった。僕はケヤキ並木を左に曲がり、僕が登校して来た方向とは逆方向に進む。その先にも門があり、そのすぐ外に大学の専用駐車場があるのだ。そこに、紘一のブラックのホンダ・フィットシャトルが停められている。僕はその車の鍵を胸ポケットから取り出した。

 何事もなく、駐車場に到着する。車はまばらに停められていた。紘一のフィットシャトルはすぐに見つけられた。バンパーに大きな凹みがあり、これが目印なのだ。僕は車に近づき、その凹みに触れた。
 これは紘一と数名の友人と湘南の海に出かけた時につけられたものだった。早朝に皆とサーフィンをするために海に行き、夜になるまで皆で遊び呆けた。帰る時には深夜を回っており、皆で運転を交代しながら大学方面へと帰った。けれども、紘一が運転を担当した時に居眠りしたのか、道を大きく逸れ、ガードレールにぶつかった。皆が飛び起きて、その状況をただ笑った。金もなく、その傷は直されないままだった。あの頃の、馬鹿をしていた日々が懐かしく感じられた。
 僕は車に乗り込み、鍵を差し込み、エンジンをかける。それから乗り慣れた紘一の車を発進させる。駐車場を出て、大学の門から侵入し、ケヤキ並木を直進する。それから、右折し、さらに直進し、理学部研究棟前に車をつける。
 偶人とは出くわすことはなかった。しかしながら、普通の人間とも出会うことがなかった。誰一人いない真っ昼間というのはどうにも奇妙に感じられた。僕は車を降り、鍵をかけた後、亜衣と紘一が待つ研究室へと向かった。

 研究室に戻ると、亜衣は荷物の準備を終わらせていた。研究棟に残されていた食料や飲料をかき集め、誰のものか分からないボストンバッグにまとめていた。紘一は変わらず、熱でうなされていた。
「秋くん。無事で良かった」亜衣は安堵の表情を浮かべながら言った。
「ああ、偶人にも出くわさずに駐車場にはすんなり着けたよ」
「それは良かった。人は……普通の人はいなかったの?」
「ああ、見かけなかった」
「そうなのね……。紘一のことが心配なの。荷物の準備もできたし、早くこの大学から出ましょう」
「そうだな。じゃあ、出発しよう。紘一を何としても助けよう」
 僕はそう言って、亜衣の準備したボストンバッグを肩に背負った。それから紘一を亜衣と一緒に担架に乗せて、車へと向かった。窓から陸上競技場を眺めると、遠くの方にいつもの偶人が徘徊しているのが見えた。ゆっくりと、ゆっくりと歩を進め、それから地面に寝転び、そのまま寝た。人が人それぞれ違うように、偶人も偶人それぞれで違うのだろう。あの偶人は人であった時、いったい誰であったのか。今となっては分かることもない。

 僕達は車に乗り込み、大学病院へと向かう。
 後部座席を倒すことで荷室を広げ、紘一が寝られるようにした。亜衣は荷室に座り、紘一を介抱する。僕はハンドルを握り、運転を担当する。ゆるやかに発進し、神奈川県の県道63号を走行する。
 信号機は通常どおり稼働しているものもあれば、点滅を続けるもの、まったく動かないものがあった。電気はこの状況でも、不完全ではあるが供給されているということか。僕達がいた理学部研究棟はソーラーと補助電源が生きており、電気は供給されていた。外でも電気供給が生きていることは僕達を少なからず安心させた。
 道路は地震の影響で、盛り上がっている場所やひび割れしている場所があった。できる限り、そのような場所を避けつつ走行し、避けられない時は、紘一に衝撃がいかないようにゆるやかに減速し、徐行に切り替えた。
 時折、路肩に乗り捨てられた車を見かけた。地震当日に車を置いて避難したのだろうか。一方、走行車線には乗り捨てられた車はほとんどなかった。
 地震当日は車の渋滞などはあったのだろうか。どのような混乱があったのだろう。地震があり、渋滞しつつも皆が家に到着し、安堵の末、眠りについたのか。そして夢のなかに閉じ込められた。一部の人は、眠りに落ちた者が起きないことに気がついたかもしれない。しかし、眠りの誘惑には人は勝てない。いずれは寝てしまう。
作品名:イン・シトゥ 作家名:篠谷未義