イン・シトゥ
僕達は急いで、研究室のなかで武器になりそうなものを探す。ただ、そんなものは見つからないのだ。誰も戦うことなど、想定してない。僕は解剖用のメスを手に持ち、紘一は掃除用のくたびれたモップを手に持ち、亜衣は薬缶の蓋を手に持った。
そして、次の瞬間、扉が蹴破られる。
「嘘だろ! もう来やがった」そこには、それでも、あれでもないものが立っていた。
あれのように足は象のように太かったが、同じように臀部、腹部も膨れ上がっている。また胸の位置からは乳房のようなものが垂れ下がっていた。頭は西瓜を横に真っ二つにしたかのように形状で、全面に紋様が施されている。新しい個体だ。
そいつは膨れ上がった臀部、腹部、乳房を震わせながら、こちらへと突進してくる、あの咆哮をあげながら。僕達は耳を塞ぐ。凄まじい音だ、耳鳴りがする。
「こっちに避けろ」と僕は亜衣と紘一を引き寄せる。そいつは僕達への突進に失敗をし、実験器具の棚に衝突し、体勢を崩す。それから、ゆっくりと立ち上がり、きょろきょろと辺りを見渡してから、こちらに振り向く。どうやら、夢のなかで見たそれよりも動きが緩慢なようだった。
「一度、この部屋を出よう! それから一階におびき寄せて戦おう。あそこの方が広くて動きやすい」と僕は言った。二人は何も言わずに頷いた。そいつがもう一度こちらに向かって突進してきて、実験台にぶつかり倒れた瞬間、僕達は研究室の扉めがけて走り、部屋の外に出た。
それからすぐに右に曲がり、階段を見つけたら、手すりを掴みながら勢いよく駆け下りる。階段の電気は変わらずに明滅していた。二階に下りたら、同じように一階まで駆け下りる。
そいつは追ってくるが、やはり遅い。階段を転げ落ちる音がする。
僕達は一階まで下りきる。皆、息を切らしていた。
「秋! そういえば、守衛室に何か武器になるものがあるかもしれないぞ」と紘一が言った。
「そうだな、行こう」僕は守衛室に駆け込み、中を見渡す。さすまたがあった。さすまたを紘一に手渡す。それから僕は花壇を手入れするための大きなスコップを見つけ、それを手に持つ。亜衣は傘を手に取った。
守衛室から出た時、そいつも階段を下りきり、こちらに目を向けていた。だらしなさそうに垂れた肉を揺らしている。そいつにも疲労が確実に蓄積されているのが分かる。再び咆哮をあげながら突進してくる。やはり動きは緩慢だ。これなら避けられそうだ。
瞬間、僕も勢いよく駆け出し、空を切る。それからスピードをつけて、左足でしっかりと踏み込んだあと、スコップを両手で横に振りかぶって、そいつの膨らんだ腹をめがけて、叩きつける。
陶器を割ったかのように身体の表層が砕け散り、なかからピンク色の肉が露出する。そいつは床に膝をついた。そして、その瞬間、すぐさま紘一はさすまたで腹を押さえつけ、仰向けで身動きが取れないようにする。
「秋! 今のうちにやれ」と紘一が叫んだ。
僕はスコップを頭上に振りかぶって、圧倒的な敵意を持って、割れた西瓜のような頭に打ち付ける。頭も粉々に粉砕されていき、なかからは赤黒い肉が露出する。亜衣も傘を振りかぶって、腹部それから臀部を叩きつけたり、突き刺す。その度に鮮血がほとばしる。僕は頭を執拗なまでにスコップで叩き続けた。
ふいに、そいつが今までにないほど大きな咆哮をあげる。生物が死に瀕した時に出すような声だ。その気迫に僕達は一歩後退する。そいつは身体をぶるぶると震わせる。それから頭のあったところがうねうねと動き出し、そのなかから白い歯のようなものが生え始める。気色が悪い。
その様子にあっけに取られていると、瞬間、そいつがぶるっと身体を震わせ、少し間をあけてから紘一めがけて飛びかかった。
一瞬だった。そいつは紘一の左腕に噛みついた。紘一は大きな声をあげながら、その頭を右の拳で何度も殴った。僕もスコップで頭を殴りつけるが、まったく離そうとしなかった。ふとメスを持っていることに気が付き、顎の筋肉らしき場所に突き刺し、勢いよく横に引き抜き、切断した。そうすると、顎が開き、腕の外れた紘一が床へと倒れ込んだ。腕を押さえてうずくまる。
亜衣が代わりにさすまたを手に持ち、奴を押さえつける。僕は近くに消火器があることに気が付き、それを手に取り、すぐさま持ち上げて、その歯の生えた頭めがけて、大きく振り下ろした。ぐちゃりという音を立てて、頭と思われるものが潰れるのを感じた。まさに、トマトを地面に叩きつけて潰したかのような感触だ。
僕はそれをひたすらに、執拗に、続けた。呻き声をあげていたそいつは次第に何も言わなくなり、完全に停止した。それでも、亜衣はさすまたで押さえつけたままだったし、僕も消火器が変形しようが、何度も何度もそいつに振り下ろしていた。どれだけの時間、それを続けていたのか分からない。時間の感覚がぐちゃぐちゃになっていた。
僕達は紘一のところに駆け寄る。紘一の腕の傷は明らかに深刻だった。左下腕の側方部を噛みつかれており、皮膚が大きくちぎれていた。誰がどう見ても、縫合が必要な傷だった。
「……これはきっと縫合をしなくちゃならない」と僕は言った。
「え、どうすればいいの?」と亜衣は動揺した。
「助けを呼ぼうにも来ないんだ。病院もない。僕達で何とかするしかない」
「そんな……」
「……僕がやるよ。助けられないかもしれない。でもやるしかない。亜衣、消毒液と、縫合糸と縫合針、あと何か役に立ちそうなものを持ってきてくれる?」
「……ええ、分かったわ」亜衣はそう言って、ふらつきながら、研究室に戻っていた。
それからすぐに戻ってきたが、目の焦点が定まらずに僕の隣に黙って座り、必要なものを手渡した。僕は紘一の腕の傷にまず消毒液のオキシドールをかける。自分でも手が震えているのが分かる。その瞬間、激しい痛みを感じたのか紘一が暴れ出す。
「亜衣、紘一を押さえられるか?」
「ええ、分かった。やってみる」
余分な消毒液をガーゼで拭き取り、血を吸い込ませる。傷口が露出する。しかし、ぬぐってもぬぐっても血が溢れてくる。僕は震える手で何度も失敗しながら縫合針に縫合糸を通し、それから、ピンセットと鉗子で縫合を始める。
皮膚に針を通す瞬間、紘一が大きく暴れる。一針通すだけでも時間がかかってしまう。二針目を通す時、紘一がのたうち回り、針が外れてしまう。亜衣では紘一を完全に押さえつけることが出来ないのだ。そのあいだにも出血が止まらない。ガーゼで何度も何度も拭う。このペースではきっとまずい。僕は亜衣に提案することにする。
「亜衣、縫合を代わってくれないか? 僕が紘一を抑えつけるから、亜衣が縫合するんだ。」
「え……! 無理よ。私、そんなのやったことないんだから」
「僕だって、人の縫合なんてやったことないさ。このままでは紘一が出血多量で死んでしまうかもしれない。お願いだ」
「……分かったわ。できるか分からないけど……やるわ」