イン・シトゥ
第六章 土くれから作られた人間
僕は目を覚ます。あの動物臭が鼻腔に纏わりついた。小動物飼育スペースの小部屋に帰ってきたのだ。隣から誰かの寝息が聞こえる。亜衣だ。
彼女は床に座り込み、僕の眠るソファに両腕を置き、顔をうずめて眠っていた。僕は肩を揺らして亜衣を起こす。眠りにまどろむ子猫のような表情で、彼女はそっと目を覚ます。それから、驚いたような表情で声を上げる。
「起きたの?」そう言って亜衣は僕に抱きしめた。「良かった。本当に良かった」
ふいに、扉が開かれる。紘一だ。「秋、起きたのか? お前は本当に俺達に心配をかけてばっかりだな。亜衣が夢から戻ってきて、二人で何度も起こそうとしたがお前はずっと眠りっぱなしだった。亜衣はずっとお前に寄り添って、起きるのを待っていたんだぞ」
僕は夢のなかでそれに襲われて、その後、現実世界で起きるのではなく、街へと飛ばされた。その間、僕はずっと眠りに落ちたままだったのだろうか。紘一や亜衣が起こそうとしても決して僕は起きなかったということか。
「すまない。心配をかけてしまって」と僕は言った。それから二人にもあの街のことを話すべきだろうと思った。「色々と話したいことがあるんだ。今後のためにも」
「ええ、聞かせて。少しは私達を頼ってね」
それから僕は思い出す。夢のなかで地面に叩きつけられたトマトのようになってしまった男のことを。「そうだ、亜衣。彼はどうなったんだ? 夢のなかで、奴に……」
亜衣は俯いた。それから重い口を開けて、声を発した。「……こっちでは死んでいたわ。しばらく、秋が起きなかったから付きっきりになっていたけれど、その合間に彼の様子を見に行ったの。呼吸はしていなくて、身体も冷たくなっていて」
「……そうか。女の子は? 彼女は夢の世界に閉じ込められたままだった。夢のなかでも起きなかったから、さらに奥に行っているのだろうけど」
「彼女は眠ったままだけど、生きていたわ。奴には見つからなかったのかもしれない」
「それは不幸中の幸いだな。彼女はもう一度助けに行くのか? 行けるとしても、僕達三人だと3層までしか行けないが。一人が現実に残り、二人が夢の世界に行く。そのうち、一人が夢の夢のなかに行き、彼女を起こせるか試す」
「ええ、そうね。三人いればそれができるかもしれないわ。でも、また秋くんが帰ってこなかったら、私は辛いわ。そのことを……話してくれるんでしょう?」
「ああ、そうだった。ゆっくりと話せるところに移動しよう」
僕達は再び、セミナー室に移動した。僕が窓際の席に一人で座り、その対面に二人が座る。そして、僕はあの街について話し始める。
「……僕が眠り、夢に落ちた時、よく分からない不思議な街で目覚めるんだ。地震の当日、頭を打って気を失った時も、その街で僕は目を覚ました。それから亜衣と二人で夢に落ちた時も、最初は現実に近い夢の世界に行き、亜衣と再会できたわけだが、奴に襲われて殺されそうとなった瞬間に、その街にいきなり切り替わったんだ」
「それは一体、どんな街なんだ?」と紘一が訊いた。
「まだ十分に理解できているとは言えないけど、その街は外の勢力から攻撃を受けていて、戦争が行われている場所だ。鳶(トビ)と呼ばれる君主がいて、街の皆は彼を慕い、軍が街の防衛に当たっている。街に出ることは禁忌とされ、常に防戦一方だが、軍は秘密裏に少数精鋭を組織し、敵の居場所の特定のため、街の外へと任務に出す。僕はその部隊の一員で、唯一の生還者らしい。しかし、傷を負って街に戻ってきて、一ヶ月意識不明。ようやく目覚めたが、記憶喪失で、敵の場所も分からないというオチだ。それはそうだろう。意識や記憶は、僕のままなんだから」
「不思議な話ね」と亜衣は言った。
「本当に不思議なんだ。こんなエピソード、小説や映画でも僕は触れたことがない。けれども、描写がやけにリアルなんだ。それに加えて、夢を見て神託を得る夢見師(ゆめみし)だったり、銃弾に火薬と「言葉」の力を吹き込む言葉師(ことばし)、呪われながらも特殊な能力が付与された呪われ師(のろわれし)だったりが街にいる。奇妙な役職で聞いたこともないし、意味の分からない設定だ」
「そうね。その街の世界が、このおかしくなってしまった現実世界と何か関係があるのかしら? 私や紘一は現実的な夢しか見ない一方で、秋くんは非現実的な夢を見る場合もあるということね。そこに何か意味を見い出せるかもしれないわね」
「そうかもしれないが、判断材料がなさすぎる。それに、僕も現実的な夢も見れることが分かったし。街の夢がどのように始まるのか、切り替わるのか、その引き金さえもまだ分からない」
「そうだな。今のところ考えても、分からないよな」と紘一が言った。「ただ、分かることは、秋はその街に行けば、自力で現実世界に戻れるということだよな?」
「……ああ、確かに。それはそうだな。その街に行くことができれば、夢のなかの夢に閉じ込められることはないのかもしれない」
「それはメリットといえばメリットだな。街の夢が制御できないのは不便だが。それが出来るようになれば……」
「それが秋くんの武器かもね」と亜衣は言った。それから、彼女は僕を小突いた。「そういうことは最初に話してくれないと駄目だからね。もっと私達のことを頼ること。分かった?」
「そうだぞ、秋」紘一も僕を肘でつついた。
「ああ、分かったよ。二人共、ありがとう」
「話を戻すが……」と紘一が言った。「二人は夢のなかで、あれに襲われたんだよな?」
「ええ。現実世界にいる“あれ”とは形が随分と違っていたけれど、似ていたわ。言うならば“それ”かしら。それは夢のなかで現れて、私達を執拗に追いかけ回した。それから男の子を……」亜衣はそれだけ言って言い淀んだ。
「言わなくていいぜ。分かってるから」と紘一が言った。「あれも、それも、いったい何なんだろうな」
そして、その瞬間である。再び、あの声を聞くことになる。ぜったいに聞きたくない、あの咆哮を。
「嘘、これって……?」と亜衣が呟いた。
「あいつだ」と僕は言った。
「この声、外からじゃないぞ。建物の中じゃないか? 外のあれが中に入ってきたのか?」と紘一が言った。
それは咆哮を上げながら、何かを勢いよく叩きつけながら破壊しているようだ。そのような音がどこかから聞こえてくる。それから、一歩一歩、這いずるかのように歩みを進めているようだ。その音が徐々に迫ってくる。
「武器。何か戦えるものを!」と僕は叫んだ。「この建物の中にいる以上、奴を倒すしかない。外にはあんな奴らがもっと多くいるのかもしれない。今、外に出て逃げるのは危険すぎる。この中で倒そう」
「倒せるのかよ……あれ。ゲームじゃないんだぞ。夢だろ、これ?」と紘一が言った。
「残念ながら、私の手の甲には何も書いていないわ」と亜衣は落胆した。
そうこうしている間にも、奴が奏でる音が近づいてくる。音のする方向を耳をすませて探る。どうやら上の階のようだ。階段を下りてきているような音がする。だが奇妙だ。外のあれが侵入するとすれば、下から登ってくるだろう。上からどのようにして侵入したのだろう。