Moonlighting
「あーもう、この食いしん坊」
「めっちゃ遠いけど、あれガソリンかな?」
土生が指差し、雪原は目を凝らせた。先の方に、高速道路のような宙を走る道路が見える。その下には、赤く光る点。よく見かけるガソリンスタンドのロゴだと気づき、雪原はうなずいた。
「うん。それっぽい。彩子、目めっちゃいいな」
スピードを上げなくても、見る見るうちに景色が近づいてきて、高速道路の下を抜ける交差点の角に『セルフ』と描かれた看板が姿を現した。
後ろからスカイラインを照らしていたヘッドライトの光が逸れたことに気づき、佐藤が呟いた。
「ガソリンスタンドに入りました」
「今か?」
赤井はミラーに視線を向けた。ちょうど、ガソリンスタンドに車体を揺すりながら入っていくルートバンの後部が見えた。
「あの馬鹿」
ここから先は山道だ。すぐに停まれる場所がない。転回できるとすれば、三キロ先にあるチェーン脱着所ぐらい。赤井が舌打ちしたとき、佐藤は振り返りながら言った。
「ここで下ろしてください」
「ちょっと走ったら、転回できる場所がある」
赤井はそう言うと、アクセルを踏み込んだ。青木は環境の変化に弱い。桃井の代わりを探すと言い始めたときから、頭の半分以上がそのことで占められていて、事前に燃料を満タンにしておくという基本的なことを忘れていたのだろう。
青木は、給油口の方向に合わせてガソリンスタンドの中をぐるりと周回した。ハンドルを右にぐるりと回したとき、交差点の反対側からまっすぐ入ってきた車と衝突しそうになり、急ブレーキを踏んだ。車体ががくんと揺れてエンジンが止まり、ミラジーノに乗る二人組の若い女は、揃って頭を下げた。青木は遠慮がちに同じ仕草で頭を下げると、クラッチを踏み込んでエンジンを再始動させ、ミラジーノを大きく避けてブースに横づけすると、まだ高鳴る心臓を押さえてエンジンを止めた。ミラジーノは隣のブースに寄せ始めたが、その運転の仕方で初心者なのは丸分かりだった。降りてきた二人は、セルフのガソリンスタンドすら使ったことがないようで、顔をしかめながら説明を読んでいる。
財布からプリペイドカードを抜き取ると、青木はなるべく顔が映り込まないよう俯き加減で、軽油を選んだ。給油が始まり、残り二千円程度を残してタンクが満タンになったとき、ミラジーノの方からは操作音すら聞こえてこないことに気づいた。そして、さっきから視界の隅にちらちらと映るが、眼鏡をかけていない方が、ポンプの隙間からこっちの様子を窺っている。
「あのー……」
声がかかり、手に持った財布の上にプリペイドカードを重ねた青木は、観念したように顔を上げた。
「はい」
土生は目が合うのと同時に、アルバイトで使う営業スマイルを全力で顔に展開した。
「道を教えてほしいんです。市内に戻りたくて……」
「このスタンド出たら、あっちの方向。高速の入口がすぐあるから、そっから乗って。しばらく走ったら、知ってる地名が出てくると思う」
青木が大きな手で指差し、土生は笑顔のまま頭を下げた。
「ありがとうございます」
「それ、分かるかな?」
青木は、まだ説明書きを読んでいる眼鏡の方に言った。雪原はびくりと肩をすくめると、土生と申し合わせたように首を傾げた。
「これって、レギュラーでいいですかね……」
「いいよ」
青木はそう言うと、中途半端に財布を持っている状態が落ち着かなくなり、隣のブースに移ると、雪原のすぐ隣にあるカード用のスロットにプリペイドカードを差し込んだ。
「二千円ぐらいある。中途半端だから、使ってくれていいよ」
青木はそう言うと、返事を待つことなく自分のブースへ戻った。
「え、いいんですか?」
土生が言い、雪原も慌てて見送るように青木の後ろ姿を追った。青木が振り返るか迷ったとき、青白いヘッドライトが山道の方向から戻ってきて、ガソリンスタンドの少し手前で停まった。雪原と土生が同時に顔を向けたとき、スカイラインは車体で苛立ちを表現するように、長々とクラクションを鳴らした。青木は突然の音に驚いてルートバンの下に財布を取り落とし、大きな体を屈めながら指で引き寄せて回収した。
「あの、色々とありがとうございました」
慌てて運転席に乗り込む青木の背中に向けて言うと、土生は雪原と同時に頭を下げた。ルートバンがのろのろと出て行き、その場にしばらく待機していたスカイラインは、思い出したように交差点で器用にUターンすると、鋭く加速して同じ方向に消えていった。雪原はその姿を見届けると、給油を始めながら言った。
「なんやろ。めっちゃ鳴らされてたけど」
「感じ悪いよなー。バン? の人の親切が帳消しになったわ」
土生はそう言うと、名残惜しそうにルートバンが停まっていたブースを覗き込んだ。
「道教えてくれたし、カードみたいなやつもくれたのに」
「なー。お、ガソリン入ったっぽいぞ」
雪原がそう言って恐る恐るノズルを抜いたとき、土生はあっと声を上げた。
「ちょっと、落とし物」
キャップを締めた雪原は、土生の隣に並んだ。さっき、落とした財布を取るために屈みこんでいたのと同じ位置に、カードが落ちている。
「財布から飛び出てんで、かわいそうに」
雪原が言うと、土生はそれを拾い上げて、裏に書かれた名前に目を通した。
「青木に、希望の望」
「のぞむ、かな? 知らんけど。てか、クレジットカードやん。ヤバいな」
雪原が言ったとき、土生はルートバンが消えていった山道に目を凝らせた。
「あの白いバンみたいなやつ、めっちゃ遅そうやったけど。ジーノちゃんやったら、ひゅって追いつけそうじゃない?」
雪原は肩をすくめた。考えている時間も勿体ない。色々と特別なことが起きすぎて、よく分からなくなっている。戻る方向も分かったし、ちょっと反対方向に走ったぐらいで迷うことはないだろう。
「本気、見せたろかー」
佐藤は、山道に差し掛かる前のチェーン脱着所が見えたとき、赤井に言った。
「交代しますので、青木さんに停まるよう伝えてください」
ルートバンはのろのろ運転を続けていて、赤井が追い越すのと同時に通常運転に戻った。今はバックミラーに映っている。赤井は前を見据えたまま、言った。
「さっき、運転なんで代わらんかったん?」
「人と話していたので。目撃者は少ない方がいいでしょう。どうして、車ごと戻ったんですか?」
少しずつ尖っていく佐藤の口調に、赤井は笑った。運転手として雇ったが、ここまで意味がなければ、別の役割を果たしてもらってもいいかもしれない。青木も同じことを考えているかもしれないが、佐藤の外見はどう考えても『商品』の側だ。顔を見せたら、相手先は追加案件として身柄を要求してくるかもしれない。
チェーン脱着場を通り過ぎて山道に入り、コーナーをいくつか回ったとき、佐藤は赤井の方を向いた。
「わたし達の後ろから、もう一台来ています。例の分岐に差し掛かる前に、スピードを上げてください。あと二キロです」
赤井は、佐藤が地図を頭に入れていることにわざとらしく驚き、後ろを振り返った。
「覚えてるんやな、さすがやわ」
青木の携帯電話を鳴らし、赤井は咳ばらいをしてから言った。
作品名:Moonlighting 作家名:オオサカタロウ