Savage Reflection
笹川が名前を呼びながら顔を向けたとき、鹿野は相槌を打つまでの時間が長すぎたことに気づいて、歯を食いしばった。笹川が『神経質すぎるかどうか』を、まずは答えなければならない。笹川が左手で鹿野の右耳を掴もうとしたとき、白猫のガラス細工のような手が割って入った。
「ケンカしないでください」
手を掴まれてしばらく拮抗した状態が続き、笹川は諦めたように引いた。力で負けることはないし、その細い指を握力だけで折ることもできる。ただ、白猫は人を殺す方法を誰よりも知っているから、力で勝てると舐めてかかると、全く力に頼らない方法で息の根を止めにくる。そして、それが他人に対して成功を収める瞬間は、何度も見てきた。
鹿野は額に浮いた汗を手の甲で拭うと、首を横に振った。
「神経質だとは思いません。ただ、少しずつ輪が狭まっているのは確かだと思います」
「それは、その通りだな」
笹川は笑うと、プリペイド式の携帯電話をポケットから取り出して、香織の番号を鳴らした。
「おう、今から戻るよ。それか、四人で食べに出るか?」
鹿野は振り返って、白猫と目を合わせた。笹川の和やかな口調は、完全に香織専用だ。そういうときは、自然と緊張が解けて無礼講になる。白猫は銃のグリップを強く握ったばかりの指を大きく伸ばしながら、言った。
「お腹空いた?」
「刈包が食べたいね」
鹿野が言うと、白猫はその顔を見てくすりと笑った。
「それなら、わたしが作る」
笹川が通話を終えて、鹿野の方を向いた。
「戻るぞ。メシあるってよ」
鹿野はセントラを発進させると、路地から出た。拠点は、開店休業状態のコインランドリー。屋号を照らす青色のネオンはほとんど消えていて、駐車場を示す矢印だけがオレンジ色に光っている。現地人と日本人が半々で構成された、何でも屋の組織。正式名称はなく、消えかけたネオンの残った部分がアルファベットの『V』に見えるから、いつの間にかそれが組織名として定着したらしい。
笹川はオーディオのスイッチを引っ掻き回すように操作し、CDに切り替えた。マッシブアタックのブルーラインズが流れ始めるのと同時に、白猫は退屈したように窓に頭をくっつけて目を閉じた。鹿野はセントラを走らせながら、思った。
人を殺していないときは、ひとつの大きな家族のようだ。
日本人は笹川夫妻、自分、そして白猫の四人。現地人は警察官の林と陳、そして銃火器の調整をするヨウの計三人で、鹿野と発音するのを面倒がって未だに『シカ』と呼んでくる。七人全員で食卓を囲むのが普通で、ひとりでも欠けると不思議な感じがするぐらいには、結束が強い。
この個性豊かな面子をまとめ上げているのは、真山。白髪交じりで、ちょうど五十歳。食卓を一緒に囲むことはないが、仕事の前後には必ず姿を見せて、全員の役割を頭に入れてから一服する。ヘビースモーカーで、常に手元に置いているのは、キャスターかウィンストン。飄々としていて表情も柔らかいが、その中身は外見と百八十度異なる。
笹川の話によると、四年前にこの組織を立ち上げた真山は、まず警察の内部事情を正確に掴むために、汚職警官の林と陳を引き込んだ。裏社会での立場としては枝葉の組織のひとつに過ぎないが、その容赦の無さと拷問の残酷さから一目置かれている。外向きの暴力を担当する笹川と、拷問を担当する妻の香織。そこに白猫が仲間入りしたのは、三年前。真山はありとあらゆる殺し方を十五歳の少女に教え込み、一年がかりで『白猫』を造り上げた。
ネオンが消えて真っ暗になった店の裏にセントラを停めると、鹿野はエンジンを止めた。白猫が毛布ごとAKS74Uを抱えて後部座席から降り、笹川がシートの下からグロック17を回収して助手席から降りた。二人が裏口のドアを開けて中へ入っていくと、人の気配が消えてさらに静かになった。しばらく外に残って周囲を警戒するのも、運転手の仕事だ。数分が経って目が慣れた後、白猫が裏口から出てきて、助手席に乗り込んできた。刈包が二つ乗る紙皿を差し出すと、白猫は口角を上げた。
「香織さんが買ってくれてた。食べよ」
鹿野は皿からひとつ取って、言った。
「ありがと、いただきます」
真っ暗な中、二人で並んで刈包を食べていても、特に話すことはない。鹿野は遠くの橋を行き来する車のヘッドライトを眺めながら、思った。自分には二十年、白猫には十八年分の『何か』があるはずだ。人によっては、それを人生と呼んだりする。でも、共有できることは少ない。白猫の素性を知っているのは、真山だけだ。その本名や家族構成だけでなく、どうやって日本から海を渡ってきたのかすら、誰も聞かされていない。
ほどなくして刈包を食べ終えた白猫は、呟いた。
「言いたいことがありそう」
「ないよ」
鹿野が即答すると、残念そうに眉を曲げた白猫は包み紙をくしゃくしゃに丸めた。
「仲間がわたし達を裏切ってるの?」
「分からない。笹川さんは色々と調べて回ってるらしい」
鹿野はそう言ってから、出てしまった言葉を取り返すように息を吸い込んだ。白猫は少しだけ口角を上げると、首を横に振った。
「誰にも言わないよ」
しばらく沈黙が流れ、白猫は自分が打ち切った会話が名残惜しいように首を左右に傾けながら言った。
「この、待ってる時間。退屈だよね」
「そろそろ終わるけど。代わりたい?」
鹿野が顔を向けると、白猫は前髪を揺らせながら首を横に振った。
「絶対イヤ。戻ろう」
セントラから降りて、鹿野は白猫に続いて裏口から中へ入った。新しい蛍光灯に取り換えられた事務所は明るく、林と陳がテレビを見ている。見慣れた光景。笹川がキッチンに立つ香織の隣で、つまみ食いをしようとして怒られているのも、いつも通り。ソファで二つ折りにした新聞を読んでいた真山が顔を上げ、鹿野に目を向けた。
「お疲れさま」
「お疲れさまです」
鹿野は礼儀正しくお辞儀をすると、その目をやり過ごして冷蔵庫からミネラルウォーターの満たされたピッチャーを取り出した。白猫は真山の隣に腰を下ろすと、言った。
「何を読んでるんですか?」
「日本の新聞だよ。二日前のやつだけどな」
真山は、くしゃくしゃになったキャスターの箱から一本を抜いてくわえると、火を点けてから新聞を手渡した。白猫は、真山を真似るように背筋を伸ばして記事を読み始めたが、一分も経たない内に頭をがくんと揺らせて、気合いを入れなおすように顔を上げた。
「疲れてんだろ。無理して読むな」
真山はそう言うと、笹川夫妻の方をちらりと見てから、再び白猫の方を向いた。
「上手くいったのか?」
「巻き添えが三人出ました」
小声で答えると、白猫は新聞を膝の上に置いて、小さく息をついた。相手がフルスモークの車でこそこそするから、人数や身元が分からないまま死人だけが増えた。ただそれだけの話だが、本当は無駄に殺したくない。
真山は煙草の煙を宙に吐き切ると、言った。
「隠れてる以上、巻き添えは避けられない」
林と陳がテレビに合わせるように声を揃えて笑ったとき、白猫はうなずいた。香織がエプロンを放り投げて、オーブンからローストポークの塊を取り出した。真山が体を起こして、目を大きく開いた。
「いつから準備してたんだ。すごいな」
作品名:Savage Reflection 作家名:オオサカタロウ