Savage Reflection
二〇〇二年 十二月 台北市
距離はおおよそ百メートル、豆粒のように見える、黒のメルセデスE430。その大柄な車体が交差点の赤信号で静かに停まったとき、三十分ほど白いセントラで尾行を続けていた鹿野は、ギアを落としながら呟いた。
「路肩に人がいます」
交差点の角にひとり、迎えを待つように女が立っている。助手席でくつろいでいた笹川は、キャメルの煙をフロントウィンドウに向かって吐き出しながら、諦めたように伸びをした。
「そうか、じゃあ無理だな」
メルセデスはフルスモークで、どの座席に誰が座っているのかすら分からない。このままだと、赤信号で並ぶまであと二十秒ほど。笹川は、緊張した面持ちでスピードを落としていく鹿野を小突いた。
「もっとリラックスしろ。ロボットじゃねえんだから」
鹿野はうなずいたが、二十歳になったばかりの若造からすれば、三十歳手前で何人も殺している笹川博は、そのオーラも含めて何から何まで手が届かない存在に見える。妻の香織も筋金入りで、日本では夫婦揃って外科医だったらしい。二人とも、人の死を見慣れすぎていて、血を見たぐらいでは眉ひとつ動かさない。
対して自分は、日本に帰れなくなった暴走族の構成員。二年前、喧嘩で人を殺してしまい、手遅れになる前にここへ渡った。そこで路上強盗に遭ってまたひとり殺す羽目になり、偶然見ていた笹川夫妻にスカウトされた。
「並ぶか?」
メルセデスが五十メートルまで迫ったとき、笹川が言った。
「一度並んだら、もう二回目はないぞ」
ダメ押しのような言葉が肩にのしかかったとき、路地からシルバーのBMWが出てきて停まり、歩道に立っていた女が慌てて乗り込むのが見えた。BMWが走り去り、がらんとした交差点には信号待ちをするメルセデスしかいなくなった。鹿野は信号が変わるタイミングを予測しながら、少しだけスピードを上げた。
「最大、五人」
そう呟くと、笹川はサプレッサーが取り付けられたグロック17を太ももの上に乗せた。鹿野がブレーキを踏んでセントラをゆっくりと減速させ、ちょうど真横に並んだところで、笹川は前を向いたまま後部座席に呼びかけた。
「バイマオ」
後部座席にずっと伏せていた『白猫』は、前髪を振り払いながら顔を上げた。PBS−4が取り付けられたAKS74Uを抱き枕のように抱えている姿をバックミラーで確認した笹川は、小さくうなずいた。
「殺せ」
白猫はAKS74Uの銃口をドアの内張りに押し付け、引き金を引いた。5.45ミリのライフル弾がドアを貫通して、メルセデスの車内を裁断するように引き裂いた。運転席、助手席、後部座席の順番に穴が穿たれていき、ブレーキから足が離れたメルセデスはゆっくりと前進し始めた。フルオートで二十二発を放った白猫は、ジャージの隙間に入り込んだ空薬莢を細い指で引き抜くと、ドリンクホルダーに放り込んで完全に体を起こした。
安物のお香を焚いたように煙たくなった車内で、鹿野はその顔を振り返った。細身で体が柔らかいから、後部座席にすっぽりと収まることができる。少し眠そうな大きな目に、ずっと笑っていることを命じられたように真顔でも少しだけ上がっている口角。年齢は十八歳で、日本人。口数は多くない。二年近く、色んな方法で接点を持とうと努力した結果、自由時間にお茶を一緒に飲めるぐらいの関係にはなった。鹿野は前に向き直ると、セントラを発進させてメルセデスの前へ回り、交差点を行き過ぎる直前で進路を塞いだ。主を失ったメルセデスがバンパーを軋ませながら停まったとき、笹川は口笛を吹きながら助手席から降り、グロック17を右手に持ったままメルセデスの周りをぐるりと半周した。後部座席から降りてきた白猫は、AKS74Uの弾倉を入れ替えたところだった。
「相変わらず、容赦ないな」
笹川が言うと、白猫は目を伏せながら、少しだけ歯をのぞかせて笑顔になった。窓が粉々になったメルセデスの車内には、四人が座っていた。後部座席の二人は、片方の頭が銃創で変形して、その体は合体するようにもうひとりへ折り重なっていた。運転手も後頭部から一発を受けて即死だったが、助手席の男は骨を貫かれてぐらぐらになった腕を庇いながら、首から流れ出す血を止めようとして、無事な方の手で圧迫していた。白猫が少し体を屈めて銃口を助手席へ向けたとき、笹川は首を横に振った。
「車に戻ってろ」
笹川は上着のポケットからナイフを取り出すと、シースケースを弾き飛ばすように抜いた。首の左側を押さえている男の手に武器がないことを確認してから、右耳の真横から肩まで連なる昇り龍の入れ墨を見下ろした。
この男はワンという名前で、先月まで倉庫番をやっていた。摘発されたときは何故かその場におらず、空港まで人を迎えに行っていた。もっともらしい理由だが、ちょうど不在の時に警察の手入れが入るなんていう偶然は、この業界の人間にとって印象が良くない。さらに悪印象だったのは、手入れのあった日がちょうど、今乗っているセントラの代わりになるセフィーロのブロアムを引き取りに行く予定だったことだ。自分と香織、そして鹿野。三人で取りに行く段取りになっていたが、土壇場でキャンセルした。
それでも手入れが決行されたということは、あくまで倉庫を押さえることが目的で、そこに集まろうとしていた自分達ではないという風に、相手が見せかけているような気もする。それが誰にせよ、ワンを口車に乗せて寝返らせ、役に立たないと分かった途端、自分や白猫のような猛獣のいる檻に放り込んだのは確かだ。
笹川は、ワンの首にシートベルトをひと巻きして強く引っ張り、頭を固定した。そして、その口にナイフの刃を滑り込ませた。魚を下ろすように両頬を耳まで切り裂くと、真っ赤なVの字になったような口から刃を抜いて、グロック17の銃口を眉間に向けた。
「再見」
静かに呟くと、笹川は引き金を引いた。地面に落ちた空薬莢を拾い上げてセントラに戻ったとき、鹿野は待ちきれないようにクラッチを繋いだ。笹川はグロック17を座席の下に片付けると、小さく息をついた。
「物騒だな」
誰の手によって殺されたのか、周りに分からせる必要がある。車屋のジミーから始まり、今ちょうど頭に穴が空いたワンまで、関係者がことごとく怪しい動きをしている。後部座席でまだ横になっている白猫に気づき、笹川は笑いながらバックミラー越しに目を合わせた。
「もういいぞ」
白猫はAKS74Uのストックを畳むと、毛布の下に隠して体を起こした。鹿野はセントラを路地に滑り込ませて、大きく息をついた。
「これ、いつまで続くんですか。身内を殺して回ってばかりですよ」
笹川は肩をすくめた。
「面倒ごとがなくなるまでだよ。おれが神経質すぎるって言いたいのか?」
鹿野は首を横に振った。笹川の頭の中は宇宙だ。全く訳が分からないということではなく、深淵に見える奥底には確固たる理屈がある。何でも屋として恐れられてきた組織の中で、ありとあらゆる破壊行為をやってきた男。その口から『他の連中にはまだ内緒で頼む。なんとか、尻尾を掴めそうだ』という言葉が飛び出したのは、二日前のことだ。
「鹿野?」
距離はおおよそ百メートル、豆粒のように見える、黒のメルセデスE430。その大柄な車体が交差点の赤信号で静かに停まったとき、三十分ほど白いセントラで尾行を続けていた鹿野は、ギアを落としながら呟いた。
「路肩に人がいます」
交差点の角にひとり、迎えを待つように女が立っている。助手席でくつろいでいた笹川は、キャメルの煙をフロントウィンドウに向かって吐き出しながら、諦めたように伸びをした。
「そうか、じゃあ無理だな」
メルセデスはフルスモークで、どの座席に誰が座っているのかすら分からない。このままだと、赤信号で並ぶまであと二十秒ほど。笹川は、緊張した面持ちでスピードを落としていく鹿野を小突いた。
「もっとリラックスしろ。ロボットじゃねえんだから」
鹿野はうなずいたが、二十歳になったばかりの若造からすれば、三十歳手前で何人も殺している笹川博は、そのオーラも含めて何から何まで手が届かない存在に見える。妻の香織も筋金入りで、日本では夫婦揃って外科医だったらしい。二人とも、人の死を見慣れすぎていて、血を見たぐらいでは眉ひとつ動かさない。
対して自分は、日本に帰れなくなった暴走族の構成員。二年前、喧嘩で人を殺してしまい、手遅れになる前にここへ渡った。そこで路上強盗に遭ってまたひとり殺す羽目になり、偶然見ていた笹川夫妻にスカウトされた。
「並ぶか?」
メルセデスが五十メートルまで迫ったとき、笹川が言った。
「一度並んだら、もう二回目はないぞ」
ダメ押しのような言葉が肩にのしかかったとき、路地からシルバーのBMWが出てきて停まり、歩道に立っていた女が慌てて乗り込むのが見えた。BMWが走り去り、がらんとした交差点には信号待ちをするメルセデスしかいなくなった。鹿野は信号が変わるタイミングを予測しながら、少しだけスピードを上げた。
「最大、五人」
そう呟くと、笹川はサプレッサーが取り付けられたグロック17を太ももの上に乗せた。鹿野がブレーキを踏んでセントラをゆっくりと減速させ、ちょうど真横に並んだところで、笹川は前を向いたまま後部座席に呼びかけた。
「バイマオ」
後部座席にずっと伏せていた『白猫』は、前髪を振り払いながら顔を上げた。PBS−4が取り付けられたAKS74Uを抱き枕のように抱えている姿をバックミラーで確認した笹川は、小さくうなずいた。
「殺せ」
白猫はAKS74Uの銃口をドアの内張りに押し付け、引き金を引いた。5.45ミリのライフル弾がドアを貫通して、メルセデスの車内を裁断するように引き裂いた。運転席、助手席、後部座席の順番に穴が穿たれていき、ブレーキから足が離れたメルセデスはゆっくりと前進し始めた。フルオートで二十二発を放った白猫は、ジャージの隙間に入り込んだ空薬莢を細い指で引き抜くと、ドリンクホルダーに放り込んで完全に体を起こした。
安物のお香を焚いたように煙たくなった車内で、鹿野はその顔を振り返った。細身で体が柔らかいから、後部座席にすっぽりと収まることができる。少し眠そうな大きな目に、ずっと笑っていることを命じられたように真顔でも少しだけ上がっている口角。年齢は十八歳で、日本人。口数は多くない。二年近く、色んな方法で接点を持とうと努力した結果、自由時間にお茶を一緒に飲めるぐらいの関係にはなった。鹿野は前に向き直ると、セントラを発進させてメルセデスの前へ回り、交差点を行き過ぎる直前で進路を塞いだ。主を失ったメルセデスがバンパーを軋ませながら停まったとき、笹川は口笛を吹きながら助手席から降り、グロック17を右手に持ったままメルセデスの周りをぐるりと半周した。後部座席から降りてきた白猫は、AKS74Uの弾倉を入れ替えたところだった。
「相変わらず、容赦ないな」
笹川が言うと、白猫は目を伏せながら、少しだけ歯をのぞかせて笑顔になった。窓が粉々になったメルセデスの車内には、四人が座っていた。後部座席の二人は、片方の頭が銃創で変形して、その体は合体するようにもうひとりへ折り重なっていた。運転手も後頭部から一発を受けて即死だったが、助手席の男は骨を貫かれてぐらぐらになった腕を庇いながら、首から流れ出す血を止めようとして、無事な方の手で圧迫していた。白猫が少し体を屈めて銃口を助手席へ向けたとき、笹川は首を横に振った。
「車に戻ってろ」
笹川は上着のポケットからナイフを取り出すと、シースケースを弾き飛ばすように抜いた。首の左側を押さえている男の手に武器がないことを確認してから、右耳の真横から肩まで連なる昇り龍の入れ墨を見下ろした。
この男はワンという名前で、先月まで倉庫番をやっていた。摘発されたときは何故かその場におらず、空港まで人を迎えに行っていた。もっともらしい理由だが、ちょうど不在の時に警察の手入れが入るなんていう偶然は、この業界の人間にとって印象が良くない。さらに悪印象だったのは、手入れのあった日がちょうど、今乗っているセントラの代わりになるセフィーロのブロアムを引き取りに行く予定だったことだ。自分と香織、そして鹿野。三人で取りに行く段取りになっていたが、土壇場でキャンセルした。
それでも手入れが決行されたということは、あくまで倉庫を押さえることが目的で、そこに集まろうとしていた自分達ではないという風に、相手が見せかけているような気もする。それが誰にせよ、ワンを口車に乗せて寝返らせ、役に立たないと分かった途端、自分や白猫のような猛獣のいる檻に放り込んだのは確かだ。
笹川は、ワンの首にシートベルトをひと巻きして強く引っ張り、頭を固定した。そして、その口にナイフの刃を滑り込ませた。魚を下ろすように両頬を耳まで切り裂くと、真っ赤なVの字になったような口から刃を抜いて、グロック17の銃口を眉間に向けた。
「再見」
静かに呟くと、笹川は引き金を引いた。地面に落ちた空薬莢を拾い上げてセントラに戻ったとき、鹿野は待ちきれないようにクラッチを繋いだ。笹川はグロック17を座席の下に片付けると、小さく息をついた。
「物騒だな」
誰の手によって殺されたのか、周りに分からせる必要がある。車屋のジミーから始まり、今ちょうど頭に穴が空いたワンまで、関係者がことごとく怪しい動きをしている。後部座席でまだ横になっている白猫に気づき、笹川は笑いながらバックミラー越しに目を合わせた。
「もういいぞ」
白猫はAKS74Uのストックを畳むと、毛布の下に隠して体を起こした。鹿野はセントラを路地に滑り込ませて、大きく息をついた。
「これ、いつまで続くんですか。身内を殺して回ってばかりですよ」
笹川は肩をすくめた。
「面倒ごとがなくなるまでだよ。おれが神経質すぎるって言いたいのか?」
鹿野は首を横に振った。笹川の頭の中は宇宙だ。全く訳が分からないということではなく、深淵に見える奥底には確固たる理屈がある。何でも屋として恐れられてきた組織の中で、ありとあらゆる破壊行為をやってきた男。その口から『他の連中にはまだ内緒で頼む。なんとか、尻尾を掴めそうだ』という言葉が飛び出したのは、二日前のことだ。
「鹿野?」
作品名:Savage Reflection 作家名:オオサカタロウ