夢による「すべての答え」
と感じるのだと思うと、どうしても、不可思議に思えてくるのも、仕方がないことであった。
そんな西洋の城を見ていると、今度は別の夢を思い出した。
その夢というのは、空の夢で、下から自分が見上げているところは一緒であり、そして、向こうから、後光が差しているように、逆光に見える顔が、表情が分からないままに、こちらを見下ろしているのだ。
それは、自分なのかどうなのか分からない。自分の中で、
「もう一人の自分だ」
という意識がなかったので、それは自分ではなかっただろう。
そう思うと、今度は、その人が、
「私の夢に入り込んでしまったのかしら?」
と考えるようになった。
それは作為的か、無作為か分からない。無作為のような気がする方が気持ち的には強いのだが、相手は、人の夢に入り込んでいるのを分かっているようには思えた。
なぜなら、逆光で見えない表情であるが、想像することはできた。その顔が、ニンマリとしていて、
「これ以上ない」
というほどに気持ち悪い表情に感じられて仕方がなかったのだ。
その顔を見ていると、
「大丈夫なんだろうか?」
と感じるのだが、その思いが、
「相手は、人の夢に入り込んでいる」
という意識を、最小限であるが持っていて。最小限であるがゆえに、自分でも手探りな気持ちが強いからか、相手に負けないようにという思いから、精一杯の虚勢を張っているということなのかも知れない。
それを思うと、かすみは、相手の顔を意識することができなくなってしまい、その向こうに意識を移すかなくなっていたのであった。
その向こうには、青空が広がっていた。
「澄んだ青空を見ていると、そのうちに、目の前のこちらを見ている人間から、逃れられるような気がする」
と感じたのだ。
しかし、
「ではなぜ、最初から、相手を自分の視界に入れないように、その場から立ち去るか、顔をそむけるかができないのか?」
ということになるのだが、それができないのは、男の顔が、こちらを覗いていながら、その視線に、
「ヘビに睨まれたカエル」
のようになってしまった自分がいるのだった。
かすみは、どちらかというと、臆病なのだが、時々、恐怖に感じる時に、相手の顔を見ると、急に余計なことを感じ。その時は、
「まるで三すくみのようではないか?」
と思ったのだ。
確かに突飛な考えだが、考えてみれば、
「ヘビとカエルとくれば、ナメクジが入ることで、三すくみの関係ではないか?」
ということが言えるだろう。
三すくみというのは、それぞれに、等間隔に距離を取った、正三角形の形にいるとして、それぞれが、けん制しあうというよりも、自分から見ると、それぞれに、
「自分の苦手な相手と、得意な相手がいる関係から、円を描くように、力関係が決まっている」
という場合をいう。
だから、どれも、それぞれに、力関係に対して、けん制しあうということで動けないのだ。
動いてしまって、自分が得意な相手を潰したとしても、次に潰されるのは、自分でしかない。
つまり、勝者は、絶対に、
「最後に動いたものだ」
ということになるのだ。
だから、動くことができない。これを、それぞれに、
「抑止力」
ということであり、
「完全に我慢比べになるということで、忍耐が強いものが、勝つということになるのである」
ということだ。
ただ、その力関係を、それぞれが認識しているかどうかなのだが、それぞれに、本能というものであったり、遺伝子というものの影響からか、抑止力はあるようだ。実際に、相手に対して、絶対的な力があるからこそ、成り立つ関係が、この、
「三すくみ」
というものなのだ。
三すくみというものが、
「生き物」
であるなら、その力関係は、忍耐力というものに、限られてくるだろう。
しかし、
「生き物でない場合は、絶対的な力関係」
ということで、そこに、何らかの意思が働かない限りは、破られるものではない。
それが、
「じゃんけん」
のような関係であり、だから、
「ルール」
として使われるのだ。
これがモラルというものであれば、それぞれに違う感覚を持っているということで、モラルは、人それぞれだが、
「ルール」
というものは、法律のようなものなので、万人に共通したものでなければいけない。
それが、
「法治国家」
というものであり、
「法律が絶対的な存在であることから、法律を作ったり、運用する人間が、大切になってくる」
ということになるのだ。
それを考えると、法治国家の大切さと、政府の大切さというものが、誰の身にも明らかといえるだろう。
そんな三すくみの関係を考えていると、三すくみのそれぞれの抑止力が、自分の考えよりもさらに大きな力となっていることが考えられた。
だから、それぞれに、本能だけで、動くことができなくなってしまうのだろうと思うのであって、それが、自分にとって、不思議な感覚になるのだった、
三すくみによる力が、
「空をぶち破る」
という妄想に駆られた。
そもそも、三すくみになっていると感じたことで、
「これが夢なんだ」
と感じた。
そのおかげなのか、空というのが、
「まるで、張りぼて」
のように感じられた。
それは、薄い膜になっていて、ドームになっていることを感じたのは、学校から出かけていった、
「プラネタリウム」
というものを思い出させたのだ。
ドーム型の天体に、機械によって、夜空が映し出されるというのが、プラネタリウムで、夢の中も、
「都合よく見るものは、限界がある」
ということで考えると、その向こうに見えるものが、まるで、
「作りもの」
という風に感じられるのだった。
そう、空というものが、
「卵の殻」
のようなもので、
「その向こうから、くちばしのようなものでつつけば、簡単に割れてしまう」
という感じであった。
そして、差し込んでくるのが、
「本当の太陽の光」
その威力は、
「張りぼての空」
とは比べ物にならない。
それを思うと、恐ろしさから、目を瞑ってしまったとしても、しばらくの間は、目を開くことができないくらいにはなるだろう。
「それを考えると、三すくみによる力というよりも、何といっても、太陽のような、絶対的な力があることで、三すくみの関係など、簡単に終わらせることができるのではないか?」
と思うのだった。
ただ、これが
「夢による妄想なのか?」
あるいは、
「夢だから、見ることができるということなのか?」
といろいろ考えることもできるのであった。
夢から覚めた時、眠れなくなるという症状になると、
「中途覚醒」
というそうだが、それが、どんな意識を自分にもたらすことになるのか?
そんなことを考えるのであった。
大団円
「ここで寝てしまうと、目を覚ますことができなくなるかも知れない」
ということを、かすみは、時々考える。
それが、中途覚醒において、目を覚ました時なのだが、中途覚醒で目を覚ますと、
「このまま眠れなくなる」
と考える方が普通だというのだが、かすみの場合は、
「眠たいのだが、眠ってしまうのが怖い」
作品名:夢による「すべての答え」 作家名:森本晃次