三人三様
「今まで、男性を好きになったことがあったのか?」
と聞かれると、
「分からない」
と答えることだろう。
あかねは、、
「熱しやすく、冷めやすい」
という性格であり、そこは、大迫似似ていた。
だが、大迫はそんな性格を、表に出そうとはしなかった。
表に出していたら、きっと、この店の常連になることもないだろうし、坂口や殿山とも知り合うこともなかっただろう。
もし、常連になっていたとしても、
「この三人で、ツルむということもないような気がするな」
と考えていた。
それは、あかねが、三人をよくわかっていて、そのような態度をとっているので、それを見て、大迫も感じるものがあったということだろう。
ただ、そんな大迫だったが、あかねが、次第に、坂口を好きになっていることを知っていたのだ。
実は、殿山も、あかねを知っていた。
そもそも、この店の三人の中で、
「一番びっくりした」
という相手が、殿山だったのだ。
「殿山の、聖人君子のような性格が分かっていた」
ということだからだ。
殿山は覚えていないだろうが、実は、あかねの風俗での、
「客の一人」
だったのだ。
殿山は覚えているかも知れないが、それをまったく顔に出さないということは、さすがに
「年の功」
ということで、余計なことを言わないということでもあろう。
それが、殿山の、
「気持ちの余裕である」
といってもいい。
しかし、殿山が、あかねに対して何も言わないのは、
「俺は夢の中で、いつもあかねに遭っている」
という思いがあったからだ。
それが、殿山にとっての、
「夢の共有」
ということであり、それを考えると、
「この女性。どこかで会ったような気がするんだけどな」
という、どちらかというと、
「デジャブだ」
と思っているようだった。
心に余裕がありすぎて、最近は通わなくなった風俗の、昔贔屓にしていた女の子と、いまさら遭うという偶然を信じないではないが、
「だからといって、それが何になるのか?」
と考えると、
「考えるだけ無駄だよな」
と思うのだった、
それは、
「夢を共有している」
という意識があるからで、最近は、あかねに限らず、誰か女性で、
「自分と夢を共有している」
という人がいるような気がするのであった。
あかねが、
「夢を共有している」
と感じた時、一緒にそばにいる坂口のことが、気になってきたのだ。
「夢を共有しているような気がしているんだけど、それって、坂口さんじゃないかしら?」
とあかねは思っていたのだ。
坂口には、
「大迫にない部分、そして、殿山にもない部分」
ということで、それぞれに二人にない、
「いい部分」
というものを持っているという感覚になっていたのだ。
大迫のように、
「遊びというものを、女を相手にして、恋愛仮想ゲームであるかのように、それこそ、もてあそんでいるという言葉が一番ふさわしいという考え方」
としては、持っていないということであり、
さらに、
「殿山のように、聖人君子のような顔をして、風俗に来る」
というのを考えた時、もちろん、それはそれで悪いことではないのだが、本来なら気まずいはずの相手を、まったく初めて見た相手のように、
「どこをどう切り取れば、ここまで見かえることができるのか?」
ということであった。
あかねが、坂口を気にしているということを、大迫は知らないだろう。
知っていたとしても、
「だから、どうだというのだ?」
ということであり、殿山にしてもそうだ。
「風俗嬢としてしか見えていない」
と実際には思っていた。
しかも、
「夢を共有できている」
と思っている時点で、それ以上を望むタイプでもなかった。
割り切っているというよりも、自分の年齢相応を意識しているからであった。
坂口が、
「二重人格だ」
ということは、あかねも分かっていた。
だから、共有していると思っている夢に出てくる坂口は、毎回違っている。
といっても、二重人格の両面が出てきているだけであって、それが、普段は冷静沈着なつもりでいるあかねの気持ちを揺らつかせるのであろう。
あかねは知らなかったが、坂口というのも、
「不倫」
などということに対して、感覚は冷めている。
「お互いに好きなら、それでいいじゃんか」
ということで、それが、大迫のいつも考えている、
「遊び」
という感覚と違うものなのだろうか?
「坂口さんなら、それも許せる気がする」
と思うのは、
「私が、都合のいい考え方ばかりしているからなのかしら?」
と考えるからであった。
あかねにとって、坂口という男性は、
「それぞれの、大迫や、殿山の悪いところを取り除いて、もう一度作り直したような、自分にとっての、理想の男性に思える」
と考えた。
しかし、
「一度切り取って、縫い合わせるというのは、それこそ、醜いものの創造であり、この発想は、フランケンシュタインと同じではないだろうか?」
と感じた、
フランケンシュタインの話では、作ってしまった怪物が、醜かったことで、放っておいたのだが、その怪物が、自分で考えるようになり、怪物の自分を作った、フランケンシュタインへの恨みから、フランケンシュタインの仲間を次々に殺していくというもので、それを大きなくくりの人類と広げた時、
「フランケンシュタイン症候群」
という考えが生まれてくるということになるのだった。
あかねは、このフランケンシュタインの話を知っている。
しかも、坂口は、もちろん、
「書いているのが、SF小説」
ということで、
「逆にこの話を知らない方がおかしい」
といってもいいことであろう。
それを考えると、あかねは、少し危惧を感じていたのだ。
「私が今考えていること、そして、ここで三人が出会ったということ、つまりは、私がその関係にどうかかわればいいのか?」
ということを、すべて偶然という言葉で片付けてしまうと、それは、どう考えればいいのか、正直、何ともいえない状況だといってもいいだろう。
そして、今回の坂口の小説が、この、
「夢の共有からあ始まって、あかねの心境にかかわるために、三人が出会うということ、そして、ここで遊びという言葉を口にして、皆が、それぞれに違うことを考えるということ」
そんなことを考えていると、
「それぞれに、物語を成している、起承転結のようではないか?」
と思うのだった。
そして、自分が二重人格であるということを分かったうえで、さらに、小説を書いていると、坂口は、
「俺のこの小説、ところどころに、真実があるのではないか?」
と思ったのだ、
それが、
「フランケンシュタイン」
という物語の、貼り付けた部分を醜く見せているその姿に、博士が、今度は、
「放り出す」
ということがないかのようにしないといけないということを考えていたのだ。
「夢の共有」
というものが、あかねと、坂口、さらには、あかねと関係があった後の二人を巻き込んで、そのような大団円を迎えるというのか、それこそ、坂口の小説の大団円に掛かっているといってもいいだろう。
( 完 )