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記憶の時系列

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「場所を間違えたり、日時が間違っていたり」
 ということだったりしたのだ。
 こちらは、大学生にもなると、少し自分でも分かっていたように思う。
「物事を真剣に考えられないようになり。約束をしたとしても、それを意識して覚えようとしなかったことで、以前の約束と頭の中で混乱してしまったことで、分からなくなっている」
 ということであった。
 小学生の頃は、時系列は、
「その時だけ」
 ということであったが、大学生の感覚では、
「時系列というものが、大きな影響を持っている」
 といってもいいのではないだろうか?
 中学、高校時代は、勉強をするということ自体が、
「時系列」
 のようなものだった。
 同じ時間帯に、毎日同じように勉強しているが、
「昨日よりも今日の方が、間違いなく知識を得ている」
 といってもいいだろう。
 大人になると、
「毎日が同じではダメだ。昨日よりも今日、先に進んでいなければいけない」
 ということを、大人は平気でいう。
 子供とすれば、ピンとこないのだから、言われても、意識できるわけもない。
 それどころか、
「そんなことをいう大人だって、毎日同じことを繰り返しているではないか」
 という思いが深まっているだけであった。
 毎日、同じ時間に会社に行って、同じくらいの時間に帰ってくる。父親の世代は、残業というものは、それほどなかった時代であり、
「父親の権力は絶対だ」
 と言われるような状況だった。
 当然、父親は、
「独裁者」
 ということになり、
「テレビのチャンネルの権利も父親が握っている」
 ということであり、
「父親が帰ってくるまでは、夕ご飯も食べれない」
 というほど、
「家長というのは、えらい」
 ということであった。
 その変わり、
「家を代表して、働きに行ってくれて、家を支えてくれる」
 というまさに、
「大黒柱」
 といってもよかったのだ。
 今のように、共稼ぎとなってしまうと、
「父親も、家事や育児参加は当たり前で、義務といってもいい」
 と言われるような時代だったが、昔であれば、
「男が台所に入るなどありえない」
 と言われるほどだったのだ。
 それだけ、
「家族における分業制がしっかりしていて。台所は、母親の領域だ」
 ということになるのだろう。
 ここまで変わってしまったのは、当然、社会の体制が変わったことであろうが、その間に、
「バブルの崩壊」
 などという、大事件があったからであろう。
 それも、原因は別にして、
「バブルの崩壊」
 というものが、世間にもたらした影響として、計り知れないというのは、
「それまで神話と言われてきたことの崩壊」
 というのが大きかったのだろう。
 特に、
「銀行の破綻」
 というのが大きく、それが分かると、想像以上に経済が混乱し、
「政府の助け」
 など、あってないようなものだったのだ。
 バブルが崩壊してからというもの、それまで、
「神話」
 と言われてきたことが、
「ことごとく、あれは、ウソだった」
 ということになってきた。
 特に、暗線神話のいくつが、崩れていったことだろう。その原因がどこにあるのかを、まともに政府は調査しようとしているのだろうか?
「銀行破綻神話」
 に端を発し、それから、少しして、
「大都市を襲った、大震災」
 によって、さまざまな
「安全神話」
 というものが、まるで、
「張り子のトラ」
 だったということが分かったというものだ。
 まずは、
「高速道路神話」
 であった。
「少々の地震では壊れるはずがない」
 と言われていた高速道路が、
「数キロにわたって、横倒しになっている」
 というシーンは、あまりにも、強烈な印象だった。
 さらに、
「8階建ての病院の、5階部分が完全に潰れて、4階のその下が、6階だった」
 というような、まるで、
「達磨崩し」
 のような、
「慣性の法則」
 というものを見ているようなものであった。
 さらに、
「鉄道をまたぐように高架橋のようになった道が、そのまま崩れ落ちて、線路に落っこちている」
 というようなシーンもあり、
「これらは、無数にある神話崩壊の一部でしかない」
 というほど、たくさんの写真が撮られ、今でも、見た人に、大きなショックを与えることになったのだ。
 ただ、何よりも、一番の
「神話の崩壊」
 というのは、
「その土地が、以前からほとんど災害に見舞われないところで、
「この辺りは安全だ」
 と叫ばれていたことであった。
 この土地に大災害が襲ったということは、
「土地の安全神話」
 というものが通用しなくなり、
「いつどこで、どのような大災害が起こっても、不思議のないことだ」
 ということであったのだ。
 その15年後には、
「津波を伴い大災害」
 というものがあり、そこにあった原発が、事故を起こし、放射能汚染というものが、現実に起こってしまい、近隣には、誰も立ち入ることができなくなってしまったということがあった。
 これも、
「原発安全神話」
 というものがあり、それが崩壊した瞬間だった。
 詳しいことは別にして、これが、
「人災であった」
 ということは、紛れもない事実だったといってもいいだろう。
 そのくせ、電力会社や国は、
「絶対に安全だから」
 といって、原発を作ったくせに、この人災でも、言い訳をして、なかなか譲らない態度をとることで、裁判にもなったりした。
 政府はその対応に失敗したどころか、当時のソーリが、
「逆ギレする」
 などという、言語道断の状況を引き起こしたので、
「せっかく、政権交代をして、これから」 
 という時に、
「一期しかもたなかった」
 ということになったのであった。
 それが、
「日本を支えていった安全神話」
 というものの正体だったのだ。
 そんな過去の大災害において、精神疾患の人も増えたことだろう。
「トラウマ」
「PTSD」
 などというものが、精神疾患として残ることで、
「双極性障害」
 であったり、
「パニック障害」
「自律神経」
 や、
「統一性障害」
 などという患者が増えてしまったというのも、仕方のないことだろう。
 横川も、自分が、
「精神疾患ではないか?」
 と感じるようになったのは、
「30歳になる少し前」
 くらいであった。
 その頃には、まだまだ精神疾患というのは、認知されているわけではなく、
「自分から病院に行く」
 ということが、
「どれほど勇気がいることなのか?」
 ということであった。
 会社に入って、約5年くらいが経って、
「精神疾患」
 というものが、自分の中で現実味を帯びてきたのが、上司による、今でいう、
「パワハラ」
 だったのだ。
「俺が悪いんだ」
 とどうしても思わせる、
「上司のいっていることに一理ある」
 と思うと、すべてを自分に抱え込むということになってしまうということが、どれほどの重責か自分でも分かっていなかったのだ。

                 大団円

 大学時代に一度乗り越えたと思った精神疾患ではないかと思ったことであったが、さすがに、人生の3回目ともなると、
「俺は、本当に精神疾患を病んでいるのかも知れない」
作品名:記憶の時系列 作家名:森本晃次