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記憶の時系列

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 この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和5年10月時点のものです。とにかく、このお話は、すべてがフィクションです。疑わしいことも含んでいますが、それをウソか本当かというのを考えるのは、読者の自由となります。

                 東西冷戦

「東西冷戦」
 という言葉は、結構長く聞いていたような気がしていて、
「まるで、つい最近まで皆知っていることのように感じる」
 というくらいになっていた。
 今、
「ソ連」
 という言葉を言っても、若い人であれば、
「何、それ?」
 という人もいるだろう。
「私、歴史嫌い」
 といわれてしまって、それまでだからである。
 まぁ、それもそうだろう。
「ソ連」
 というものが存在していてから、もうすでに、30年以上が経っているのだ。
 ソ連というのが、
「かつて、存在していた国の名前」
 といえば、それこそ、学校で習うとすれば、それは、
「歴史の授業」
 ということになるであろう。
 それは、自分たちが住んでいる、
「日本」
 という国にしてもそうである。
「大日本帝国」
 といって、分かる人も、少なくなっている。
 学校の授業に、時間という制限があるのだから、キチンとカリキュラムを組んでいないと、とても、現代にまでたどり着けないということも多いだろう。
 かつて、昭和の頃は、
「世界に通用する大人を育成する」
 ということで、昭和の頃の、詰込み教育であったり、そのために引き起こされることになった、
「受験戦争」
 などというのは、当時の社会を風刺していたといってもいいくらいで、それこそ、
「社会問題だった」
 といってもいいだろう。
 だが、それによって引き起こされた、
「落ちこぼれ問題」
 つまり、落ちこぼれといわれて、授業についてこれない生徒はどうすればいいというのか?
 これは大きな問題となり、当時は、不良の道を歩むしかなく、学校で暴れたりして、
「学校のガラスが、すべて割られている」
 という学校も少なくはなかった。
「良識ある大人」
 から見れば、
「ただ、モノに当たることしかできない、どうしようもない連中だ」
 ということであっただろう。
 だから、結局警察が出動し、収拾させるということも少なくはなかったものだ。
 しかし、
「体裁というものが、すべてのように思っていた学校も少なくない」
 受験戦争というものが、問題になってくると、生徒が暴れるような、そんな学校から、受け入れる学校など、そうもないだろう。
 だから、中学校、高校としても、
「進学率」
 というものが、学校や先生にとっての、
「通知表」
 といわれた時代において、
「警察沙汰」
 というのは、大変な問題であった。
 そんな状態に陥ると、
「学校も、簡単に、警察に通報する」
 などということができるわけもない。
 だが、警察が来なければ、いたずらに、事態がひどくなってくるだろう。
 しかし、警察を呼ぶということは、マスコミも一緒に連れてくるようなもので、学校の教職員の上の方となれば、一番守らねばいけないものは、
「学校の名誉」
 なのである。
 逆に、
「一教師」
 とすれば、
「生徒を守る」
 ということを大切にする人もいるし、逆に、
「自分の身を守る」
 ということで、生徒から、ひどい目に遭わされている先生もいる。
 中には、
「自業自得」
 という先生もいれば、
「完全にとばっちりを受けただけ」
 という先生もいることだろう。
 そんな時代の学校もあったかと思うと、それら、
「落ちこぼれ」
 というものが、原因だということにやっと気づいたことで、
「落ちこぼれをなくさなければいけない」
 ということになった。
 学校というところでは、あくまでも、平等を基本と考えるということになると、今までの、
「何が悪いのか?」
 ということよりも、
「何が問題なのか?」
 ということなのではないだろうか?
 問題を考えた時、人それぞれに、能力が違うだけではなく、感じ方が違うのだから、当然、同じ環境での勉強となると、
「分かる人間、分からない人間」
 という差が生まれるのは当たり前だ。
 そうなると、問題としては、
「じゃあ、どちらに合わせるのか?」
 ということになり、昔であれば、
「今まで、戦争や、敗戦によって、生きていく」
 ということが大変だったので、それこそ、教育というところまで、その力が及ぶわけではないことから、まずは、
「全体の底上げ」
 ということにあるだろう。
 そうなると、当然、
「高みを目指す」
 ということになり、底辺に合わせるということではなく、
「前を向いている人間に合わせる」
 というのが、当たり前ということになるだろう。
 元々、復興という意味で、
「遅れてしまった教育」
 を、元に戻すこと。
 そして、今までの、
「大日本帝国の教育から、民主教育を行うこと」
 というのが急務であることから、当然のことながら、、
「レベルの底上げ」
 ということで、
「上に合わせる教育」
 というのは当たり前のことであろう。
 しかし、その教育内容が、
「自由、平等、博愛」
 という民主教育なのであり、そうなると、いっていることと、やっていることが違ってくるのだ。
 これが、
「民主主義の限界」
 ということに結びついてくるのだが、実際には、
「自由を優先し、どこかに焦点を定めるとなると、その時点で、差別が生まれるのは当たり前だ」
 ということが、そもそもの民主主義を知らない人たち居からすれば、
「おかしなことだ」
 と、漠然としてであろうが、理不尽さを考えることだろう。
 しかも、そこで生まれた、
「落ちこぼれ」
 というものを、自分たちが生み出したものであるくせに、まるで、
「社会の悪」
 であるかのようなレッテルを貼るという形にしているのだから、
「差別のやり玉」
 として挙げられた、落ちこぼれとしては、
「ものに当たったりする」
 というのも分からなくもない。
 そこで、彼らが、
「反政府組織」
 の予備軍となるのも、時間の問題で、そんな落ちこぼれたちを受け入れてくれるのが、そんな組織でしかないのだから、当たり前といってもいいだろう。
 もちろん、問題は、
「落ちこぼれ」
 だけにあるわけではない。
 当時の受験戦争、いわゆる、
「お受験」
 といわれるもんは、どんどん低年齢化し、
「中学校から、中高一貫教育」
 というものが、存在した。
 いわゆる、どこかの大学の、
「付属中学」
「付属高校」
作品名:記憶の時系列 作家名:森本晃次