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都合のいい「一周の夢」

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 それによって、社会主義体制の国が世界からほとんどなくなり、それと同時に、
「東西冷戦」
 もなくなった。
 だからといって、世界から戦争がなくなったわけではない。
「ゲリラ戦」
 と呼ばれるもので、反政府組織が、政府に立ち向かうという、一種の内乱のようなものが、世界各国で起こってくるのであった。
 要するに、
「一つが解決しても、どんどん、災いが湧いてくる」
 ということで、それこそ、
「開けてはいけない、パンドラの匣」
 を、開けてしまったということになるのだろう。
 それを考えると、
 今の社会がいかに、
「愚かなことなのか?」
 ということになるだろう。
 しかし、実際に、
「先を読んだ政治」
 というのが、今までの歴史を考えて、できるだろうか、
 かの世界大戦もそうである。
「一次大戦を終えて、ドイツに、過剰な賠償を課したことで引き起こされた、第二次大戦の悲劇」
 といってもいい。
 もちろん、
「それだけが原因だ」
 というのは、あまりにもひどい言い分であるが、少なくとも、それがなければ、
「ナチスの台頭もなければ、ドイツの再軍備」
 もなかっただろう。
 世界恐慌というのも、拍車をかけたわけだが、それも、
「民主主義陣営」
 の起こしたことではないだろうか?
 それを思うと、
「先を読んでの対策」
 というものが、どれほど難しいことなのか?
 といえるだろう。
 特に、
「核の抑止力」
 というものに頼ってしまい、まったく身動きが取れない状態にしてしまったのは、自分たちで、それこそ、
「因果応報」
 ということでも、
「自業自得」
 ということでもあるというものだ。
 そんな社会において、
「都合のいい時代」
 という考え方があり得るのだろうか?
 実際の社会において、
「都合のいい」
 というと、あまり言葉の受け止め方からすると、
「いいイメージではない」
 といえるだろう。
 特に、この言葉は、
「一定の人たちだけにいわれることで、大衆に対して。都合のいいという言葉をあまり使うということはしない」
 といってもいいだろう。
 社会的に、特に、民主主義というものの限界として、
「多数決」
 というものが、
「民主主義の根幹」
 ということになるのだが、
「じゃあ、少数派意見はどうなるのか?」
 ということである。
「少数派意見が、絶対に悪く、多数派が絶対にいい」
 とは限らない。
 人類は、それで今までにどれだけの、
「罪」
 を犯してきたというのか。
「それでも地球は回っている」
 と言った、ガリレオガリレイであるが、それこそ、彼の意見は少数派であった。
 ほとんどまわりが、押さえつけたことであったが、結果、ガリレオが正しかったもだ。
 さらに、
「これは、何が正しいのかは分からないが、これも賛否両論あることとして、中世に行われた。魔女狩りというものである」
 魔女と疑われれば、結局は火あぶりにされて、処刑されるということであるが、誰がそれを正しいとしたのかである。
 しかし、これも、
「治安を維持する」
 ということでは必要だったのであろう。
 これは、江戸幕府においての政策としての、
「踏み絵」
 というものにも言えることであろう。
 キリストの絵を描いた板の上に足を乗せることができるかどうかということで、
「隠れキリシタンをあぶりだす」
 ということであった。
 しかし、政府としては、仕方のないやり方であった。
 実際に宣教師というのが、当時は、植民地政策の先遣隊だったわけなので、結果的には、
「踏み絵」
 というやり方は間違っていなかった・
 ということになるだろう。
 だからといって、やり方として、
「正しかった」
 といえるだろうか?
 それを考えると、
「国家としての立場と、庶民の立場に、隔たりがかなりあり、お互いに歩み寄ることのできない平行線を描いていた」
 といってもいいだろう。
 そういう意味で、
「都合のいい」
 という考えは、政府の側にあり、結局、庶民は、
「泣き寝入り」
 という構図が出来上がってしまったのであろう。

                 大団円

 朝倉青年の書いた小説は、この、
「フランケンシュタイン症候群」
 と、
「ジキルとハイド」
 のような、
「多重人格性」
 の話を書いた。
 その中で、精神疾患の話を絡めてみたのだが、フランケンシュタインの話に何を結び付けるかということを考えてみた。
 そんな中で、一つ考えたのが、
「タイムリープ」
 の話であった。
「遺伝子のタイムリープ」
 という考え方をしてみたのだが、遺伝子にタイムリープを絡めてみると、
「タイムリープというのは、自分のやり直したい時代にいって、自分に憑依する」
 という形のもので、
 つまりは、
「自分の生存しているところにしか行くことができない」
 ということになる。
 しかし、自分が生存していた時代というものを、普通は、そんなに覚えているものだろうか?
 それを考えると、
「タイムマシン」
 であったり、
「ワームホール」
 などという、
「タイムスリップ系」
 のアイテムであれば、普通に考えて、
「タイムスリップで飛び立った場所の、時間差でしか出現することができない」
 ということになる。
 下手に、
「どこに現れるか分からない」
 ということになると、うかつなことはできないというものだ。
 しかし、
「実際に、同じ場所に行けるとしても、時間が違うその場所に、何があるかということを正確に認知できる人はいない」
 といえるだろう。
 それこそ、
「タイムカメラ」
 のようなものがあり、
「時代を超えたその場所が大丈夫なのかどうかを、ナビのようなもので検索し、大丈夫であれば、タイムスリップする」
 ということでもなければ、できることではない。
 これは、ワープという発想でも同じことで。
「同じ時間に、瞬時にして、まったく違う場所に飛び出す」
 というもので、
「理論的には、タイムマシンと似たものだ」
 ということではないだろうか。
 だからであるが、
「同じ時間に別の場所に飛び出すというワープ」
 さらに、
「同じ場所に、時間を超えて飛び出すタイムマシン」
 と根本は同じ発想から生まれたものだといえるのではないだろうか。
 そういう意味で、小説の中に、
「ワープ」
 という発想も組み込んでみた。
 すると、そのワープというものが、
「裏の世界を覗ける」
 というものであるとすれば、
「ジキル博士とハイド氏」
 というのは、表裏の世界の存在ではないか?」
 ということになる。
 この発想は、たぶん、普通に考えると、そこに行きつくのだろうが、その発想は、
「誰にでも思いつくことだ」
 といえるのではないだろうか?
 しかし、朝倉青年の発想は、
「一周回って、そこに行きついた」
 という発想である。
 そのために、タイムリープの発想が役に立ったといってもいいだろうが、タイムリープというものは、ある意味、
「都合のいい発想だ」
 といってもいいだろう。
 人間誰しも、
「その時代に戻ってやり直したい」
 と考えるものだが、実際に、そこに戻ってやり直すためには、