Blindfold
学生か聞かれたけど、エプロンの下は制服だから、それ自体はなにも怪しくない。でも、ママからすれば完全に赤信号だろうから、伏せておいた方がいい。
「頑張ってねって。激励的な?」
「美緒、店員さんにそうやって声かけること、ある?」
表情は変わらないけれど、その口調は黄色信号。大雨の予報が出ていることも、気にかかっているのかもしれない。片狩は会話の方向を定めた責任を引き受けるように、肩をすくめた。
「あんまりないけど、心では思ってるよ」
「そういうことを軽々しく口に出す男はね。本当はそんなこと、全く思ってないよ」
ママは自分の言葉が新しい鎖になって娘に巻き付かないよう、気を遣ってくれている。それでもココアが半分ぐらい残ったカップを支える指の爪が白くなっているのは、十年前に大きな軌道修正を強いられたからだ。それまでは海外出張も当たり前で、ママがいないときは親戚に預けられていた。
十年前、山野彩奈の遺体が、大雨で増水した川から上がった。通称『あやちゃん』。二年二組、出席番号は二十六番。同じクラスだった。片狩は出しっぱなしになったココアの缶を開けると、自分のココアを作りながら思い出した。ママの子育てに関する意識が急激にねじ曲がったのは、あやちゃんの死から数日後。
あのとき土手に置いていたランドセル。いつも中身が汚いと言って怒っていたママは、整理しなさいよーと言いながら中を掻き回し、その紙が出てくるなり尻餅をついた。
『つぎはおまえだ』
警察にも提出したが、指紋などは出なかった。警察官の人は『同級生のいたずらかなあ』と言って、笑ってすらいた。脅しの紙ごとランドセルを捨てたママは、今でもあやちゃんは殺されたのだと思っている。それは、自分も同意見だ。そして、それからはずっと、ママはひとり娘である片狩美緒の周りを離れようとしない。暇な部署は残業もないし収入は心許ないらしく、チャイムでのアルバイトを始めるきっかけにもなった。
片狩家は、二人三脚だ。
ママがあまりにも辛そうに見えるときは、『もう捕まってるか、死んでるんじゃないかな』と言って、誤魔化している。冗談と思ってもらえるときもあれば、そうでないときもある。
山野彩奈とは、席替えで隣になってからよく話した。好き嫌いが多くて、給食に椎茸が入っているときは代わりに食べてあげていたということを、よく覚えている。体調が悪くて断ったこともあったけど、好き嫌いがないから頼りにされていた。かといって、特別仲が良かったわけではない。あやちゃんは友達が多くて、誰とでも気さくに話す性格だった。ただ、自分の思い通りにならないと、ちょっと怖いところもあった。例えば、わたしは名前が独特だから、ほとんどの友達は『かりかりちゃん』と呼んだ。でも、あやちゃんだけは『かたかたちゃん』と呼んで、譲らなかった。片狩は当時の出来事を思い浮かべながら給湯器の温度を調節すると、キッチンでママが食べている柿の種をひと粒掴み取った。
「あっ、泥棒です」
ママが笑いながら言い、片狩は口の中へ素早く放り込むと、わざとらしく音を立てて噛み砕いた。
「なんの話ですか?」
片狩はとぼけながら、向かい合わせに座った。
「美緒、本当に気をつけてよ。危ないのは夜だけじゃないよ」
目を見ていると、あの『つぎはおまえだ』が頭に浮かんでいるということぐらい、すぐに分かる。片狩はうなずくと、ママが差し出した柿の種の袋を開けて、ひと掴みを口の中へ放り込んだ。
「昼でも同じだよね。あやちゃんが亡くなったのは、夕方だったし」
ずっと思い出していたから、思わず名前を口に出してしまった。片狩が唇を結ぶと、ママは表情を曇らせた。無理もない。次になんて言っていいか分からず、片狩は少し俯いた。二人だけが『本気』にしていること。もし、それが本当なら。
次の標的は、わたしなのだ。
十年振りにあの居酒屋を訪れてから、一週間が過ぎた。予報通り、今週はずっと雨が降っている。川の水量は、週初めとは比べ物にならないぐらい増えていて、流れも速い。コンビニの店内を歩き回りながら、加藤は栄養ドリンクを物色した。チャイムには、金曜日の夜にもう一度出向いた。混雑していて、片狩も忙しそうにしていた。注文したのはハイボール、ごぼうの天ぷら、鳥肝の煮つけで、特にそれ以外のやり取りはしなかった。テーブル席に座る常連の佐々川夫妻は同年代の息子がいるらしく、小学校時代は片狩と仲が良かったらしい。
収穫ありだった。二人の会話から、片狩と山野彩菜が友達だったことが分かったのだから。
『店長からしたら、片狩さんも娘みたいなもんじゃない。現場に自分で花を添えてくれたのは、あの子だけだったし』
十年に渡る殺人行脚を締めくくったつもりでいたが、ここまで餌を目の前に差し出されたなら、もう留まる理由はない。山野彩菜が死んでから数日後、花を片手に川の前で立ち尽くしていた、ひとりの少女。それが片狩だ。
結局好みの栄養ドリンクは見つからず、加藤はコンビニから出て傘をさした。チャイムの定休日は火曜日で、つまり今日。片狩は木曜日も休みらしく、先週の内に学校から家まで帰るルートを把握した。よりによって例の川沿いの道で、器用に片手で傘を持って自転車通学をしている。
問題はどうやって土手の下へ呼び寄せるかということだが、あの手の優しそうなタイプの人間なら『助けを求める』のが、一番手っ取り早いだろう。増水した川べりで足を取られそうになった男。もちろん無視されても構わないが、自分の勘を試すという意味では、お楽しみはここから始まっている。川沿いの道路の端に立ち、加藤は待った。
十分ほど時間を潰したとき、遠くに傘をさしたまま自転車をゆっくり漕ぐ片狩の姿が見えた。このままなら、一分程度でこの道に入ってくる。加藤は傘を開いたまま地面に置き、土手を下り始めた。バランスを崩して落ちたように見えるだろう。自分の背丈ほどある草地に足を踏み入れて川までの距離を測り、激しく流れる川に落ちるギリギリのところで足を止めたとき、ちょうど一分近くが経過し、加藤は叫んだ。
「すみません! 助けてください!」
「えっ?」
片狩の声が土手の上から聞こえた。ちょうど真上で、傘を置いた場所。加藤は草地で身を低くしながら、足音を待った。少し居場所を変えておいて、声がしたところへ片狩が下りてきたら、力任せに突き飛ばす。それだけだ。そう思って振り返った加藤は、背の高い草の隙間にくすんだ赤色が混ざっていることに気づいた。ほとんど土に埋まっているが、何かがある。加藤は草をかき分けながら近づき、川の水に足元を掬われそうになりながら、真上に立った。赤色の正体は、ランドセルだった。半分埋まっているのは、土で押し流されたからだ。そして、見覚えもあった。
これは、十年前に片狩が土手に置いていた、あのランドセルだ。
だとしたら、あのメモはまだ残っているだろうか。加藤はそわそわと浮き立つ手を止められずに、ランドセルを地面から完全に取り出して、フックを解除した。中はほとんど空っぽだが、濡れて変形した紙片が残っていた。加藤はそれを手に取って、開いた。
『つぎはおまえだ』