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対比する発想

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 この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和5年9月時点のものです。とにかく、このお話は、すべてがフィクションです。疑わしいことも含んでいますが、それをウソか本当かというのを考えるのは、読者の自由となります。前作品と似たようなエピソードがありますが、話は似ていても、その命題に対しての答えが違ったり、実は別の視点で見ていたりしますので、そこは、ご了承ください。
「次の瞬間には、無限の可能性が広がっている」
 ということになるのです。

                 奇妙な味

「最近の小説は、ラノベだの、携帯小説などと言って、面白くない」
 と言われている時代があった。
 有名文学小説の文学賞などでも、最近は、あまりいい小説が書かれているというイメージがない。
 確かに、書籍としての本は、今ではほとんど売れないので、
「ネット小説」
 という形がほとんどになってしまったが、やはり、
「小説というのは、本を買って読むのがいい」
 と思うのだった。
「本の匂いが好きだ」
 という人も多く、今でも、書籍化を狙っている小説家も少なくないだろう。
 だが、実際に本屋に行ってみると、
「昔と、まったく違っている」
 と感じる人はたくさんいることだろう。
 そもそも、本屋というのは、最初から、今のような形ではなかった。
 なかなか本を出しても売れない時代は、
「本を買うのではなく、借りる」
 という時代があった。
 図書館などで借りるというわけではなく、街の本屋のように軒を構えて、そこで、安い金額で本を貸すのである。
 いわゆる、
「貸本屋」
 というもので、実際に、流行った時代もあったらしい。
 もちろん、今から半世紀前のことなので、知る由もないが、ドラマなどで見たことがあった。
 その時代というと、まだテレビが普及もしておらず、やっと、
「一家に一台、白黒テレビ」
 という時代だったという、
「まるで、箱のようなテレビで、あの中に、誰かが入っているのではないか?」
 と真剣に思っている人がいたということである。
 時代は、どんどん好景気となり、給料もベースアップされることで、
「本を借りる」
 ということではなく、
「買う」
 という時代に入ってきた。
 しかし、昔は、借りるということもある意味、経済的で、
「古新聞、古雑誌を、トイレットペーパーと交換します」
 という、
「チリ紙交換」
 というものがあった。
 今でこそ、ほどんど誰も、紙の新聞を読むという人もいなくなる時代になったのだが、昔は、トイレットペーパーと交換してくれるのはありがたかったという。
 おりしも、時代は、
「オイルショックの時代」
 があった。
 トイレットペーパーが石油で作られていることから、真剣、
「トイレットペーパーの買い占めがあったからか、スーパーから消えたという時期があった」
 のである。
 そんな時代があったからなのか、
「チリ紙交換」
 というものが自然と消えていったのだ。
「あんな高価なものを、古新聞、古雑誌と交換などできるものか」
 ということであったに違いない。
 当時の街並みというと、
「舗装もされていないような道が多く」
 何と、トイレも、
「汲み取り式で、推薦ではなかった」
 という時代だったのだ。
 実際に、本であっても、紙に変わりはない。
 今であれば、
「紙なんて、本当に紙切れ以外の何物でもない」
 というほどなのかも知れないが。
「時代によって、何が大切だったのかということを考えると、歴史が分かる」
 というものである。
 ただ、次第に物が豊富な時代になってくると、今度は別の問題が起こってくる。
「ごみ処理の問題」
 ということで、ごみの捨て場に困り、埋め立て地のようにして、ごみを捨てまくった時代があった。
 東京都心部などの埋め立て地は、
「夢の島」
 などという、言葉だけはきれいだが、実際には、悪臭と、有毒ガスが混ざったかのようなことになっているというわけだった。
 さらには、公害問題などが起こり、未来において、取り返しのつかないことになっていた時代であった。
 最近、見たことがあるはずがないものを、
「どこかで見たことがあるような」
 という、いわゆる、
「デジャブ現象」
 というものを感じることがある。
 最近、気になっているのが、昔のごみ収集である。
「夢の島」
 などというところに行ったこともないし、最近ではそんなものはない、
「ごみ焼却場」
 などというのは、今では、大きな自治体には、一つはあるくらいになっている。
 さらに、今と昔の違いは、
「ごみを捨てるにも金がかかる」
 ということだった。
 昔であれば、ごみに出す時、よほどのものでなければ金がかかるということはなかったのではないか。
 しかし、いつ頃からそんな風になったのか、ハッキリとは覚えていないが、
「粗大ごみなど、シールを貼って捨てなければいけない。そのシールに金がかかるのだった」
 さらに、
「産業廃棄物」
 なるものは、特にそうである。
 今では文明の利器ともいわれているパソコンなどもそうだ。
 さらに、昔であれば、
「三種の神器」
 と言われた電化製品なども、捨てる時に金を取られる。
 電気洗濯機、冷蔵庫、皆、捨てるのにも金を取られるのだ。
 そもそも、
「燃えるごみ」
 というのも、よくよく考えると、
「ただではない」
 なぜなら、ごみ収集車であったり、ごみ処理所などというのは、自治体で購入したものだ。
 自治体というのは、公務員である。彼らの給料も、必要なものの購入も、
「すべてが税金から賄われている」
 と考えると、
「皆が納めている血税で賄われているのだから、最初から、金を取られているといってもいいだろう」
 しかも、今は、ごみの種別も厳しくなっている。
「手間がかかるから」
 ということであるが、そもそも、昔も手間がかかったはずなのに、なぜ、、今はお金がかかるというのか、同じことをしているのに、今の時代の方が、効率よくできるはずなのに、一体どういうことなのだろう。
 そんなことを考えていると、
「税金泥棒」
 と言ってもいいだろう。
 ただ、文句ばかり言っていても始まらない。お金がかかるならかかるで仕方がないことなのだろうが、それならもっと、効率よくできないものかと感じるのだった。
 そもそも、ごみの種別を国民にさせるなら、
「国民に金を払って」
 いや、
「税金を減らすから、ごみの仕分けをお願いします」
作品名:対比する発想 作家名:森本晃次