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剣豪じじい  4章(完結)

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「父上、あっというまの火です。言いつけどおり、半鐘が鳴った時、もう外にでていました。貴重品を包んで用意してあったので、すぐに逃げられました。ふりかえったら家は炎のなかでした。槍も鎧も箪笥もみんな燃えてしまうでしょう」
武士にとって、武具は大事な宝である。
寅之助が想像しているよりも、火は足が速かったのである。

すると今度は、寅之助の胸に抱えた平助が喋りだした。
「おれ、父上と母上が大事にしてるものちゃんと持ってきたよ、ほれ」
懐から丸めた絵らしき紙をとりだし、歩いている寅之助の胸のなかで、半分ほど広げて見せる。
「字もちゃんとよめるよ。えーと、おんなはたえかねすすりなき‥‥…」
母親の夏江が横からすごい顔をし、枕絵意をとりあげた。


この火事は、例の江戸の殲滅作戦と関係があるのか────。
四方八方から鳴り響く半鐘が、寅之助の頭の中で跳ねている。
午後おそくになって、探索にでた二人の忍びのうちの一人が帰った。

「こんな火事は見たことがありません。とにかく風が強いので、どんどん飛び火します。風も北から西、西から南東というように常に変わります。焼け跡には死体が山になっています。井戸のなかにも人が積み重なっていました。苦し紛れに次々に跳び込んでいき、下の者が溺れ、上の者が火で焼かれていました」
語りだす顎の平蔵の配下の男の目は、虚ろだ。

駿河台を燃やした火が、日本橋、江戸橋、茅場町、同心町、八丁堀と飛び火で燃える。
日本橋にさしかかったが、人と荷物でいっぱいで一歩も踏み込めない。
しかたなく、欄干に捕まり、端の出っ張りに足をかけ、橋を渡った。

ところが、また風向きが急に変わり、はるか六、七町もはなれた鞘町が燃えだした。
火勢は一気に南東に広がり、小川町、須田町、岩本町、神田本町に延焼した。
人々は、より安全な隅田川のほうに逃げた。
荷物を背負い、さらに風下の霊雁島へと渡ったが、避難先の霊鴈寺が燃えだした。

炎が寺の庭にひしめく人々の頭上に覆いかぶさる。
苦し紛れに海に逃れた者が、冬の寒さで凍え死ぬ。
霊雁島の火は、そのとなりの佃島に移り、そこでまた、すべてを焼き尽くす。

「私がそこで見た死体は、千や二千ではありません。焼け跡に累々と積み重なり、まだ命のある者が、呻き、泣き叫んでいるのです。こんな恐ろしい光景は‥‥‥‥」
若い忍びは、乱れた髪のまま絶句した。

半鐘は翌朝、五時ごろ、ようやく静まった。
そのころになって、火の元を探りにいったもう一人の忍びも戻った。
顔は灰で煤で黒かった。

「火元は本郷円山町(まるやまちょう)の本妙寺です。台所で焚いていた火が、天井に燃え移ったのです。そのとき勝手口の扉が開いて強風が吹き込み、たちまち燃え広がってしまったのです。それが強風にあおられ、次々に引火していったという訳です」
真黒な顔に、驚愕に満ちた眼球が左右に揺れる。
「本妙寺に関しては、浪人たちの気配はまったくありません」
最後に落ち着いてそうつけ加える。

「家族を求めさ迷う人々の群れ。焼け死んで重なる人をかき分け、親や子の名を叫ぶ者。髪も着物も燃え、五体が焼け、肉が裂け、黒くけぶるのもいとわず、泣きながら遺体を抱きしめる者。炭になって積み重なり、焼き魚のごとく累々と横たわる死体が通路に沿ってどこまでも続いています」

忍者の男は言葉を切り、はあはあと息切り、しばらく言葉がでない。
「一休みしたらまた出かけます。こんなときを狙い、だれが動きだすかわかりません」
寅之助は、深く掻巻をかぶって眠りについた。
明るくなったら、自分も供の者と一緒に焼け跡に出ていくつもりだった。

雨戸に、北風の吹きつけいる音で目を覚ました。
雨戸の隙間からは、明かりが漏れていた。
朝は明けていた。

食事をすませたとき、次郎兵衛がやってきた。
寅之助の倅の重太郎も、菊乃もあとについてきた。
菊乃は背中に雪之丞を背負っている。

「また燃えだしたぞ。今度は小石川の伝通院あたりからだ。風が強いので昨日の焼け跡の灰が舞って、江戸の空は真黒だ」
悟ったかのごとく、いつも落ち着いている次郎兵衛だったが、あわてたふうだった。
次郎兵衛は、上野の寛永寺まで偵察にいってきたのだ。

「寅之助、今日は風も昨日より強いし、雪がふりそうに寒い。運よく生き残った者もこれでは耐えられん」
次郎兵衛は、半分蒼ざめている。

すると寅之助を挟んで次郎兵衛とは反対側にいた菊乃が、肩越しにささやいた。
おぶさっている雪之丞の温かさが、ふわっと寅之助の頬に触れる。
「寅之助さま、雪之丞がまた背中を……」
人がいるのでそれ以上口にしなかったが、菊乃は澄んだ目を大きく見開いている。

えっ? と寅之助は、菊乃を見返す。
見つめ合ったまま、寅之助は唇を噛みしめ、ゆっくりうなずく。
浪人たちが起こした火事なのか、それともこの火事に乗じ、なにかことかを起こそうと言うのか。
とにかくただの火事ではないようである。

「平蔵の部下とも話したが、火は武家屋敷を焼きながらお城に向かうだろうということだ。平蔵はいま、お鈴に会いにいっているそうだ」
同席していた寅之助の倅の重太郎が、これらの会話を聞いている。
自分の父親は、ただの隠居じじいだと思っていたが、なんだか違うようだぞとおどろき顏だ。

寅之助は戸板で仕切られたのぞき窓を開け、外の景色をうかがった。
鶯谷の畑に、北風が音をたてて吹いていた。
上野の森を越え、黒い煙が大根の青い葉をかすめてながれている。
検問を設けたのか別の方向に誘導されたのか、避難民の姿はなかった。

上納品の大根畑のなかの路を、男が走ってきた。
城下を偵察しにいった忍びだった。
昨日の黒い顔のままである。
あわただしく、風下の通用口から屋敷に飛びこんでくる。

「江戸城の、東側の大名屋敷が一斉に燃えています。水野出羽守(でわのかみ)、松平伊豆守(いずのかみ)、酒井雅楽頭(いたのかみ)、両奉行の御板所、蜂須賀阿波守(あわのかみ)‥‥」
声がふるえ、あとが続かない。
江戸を焼いた昨日の火事が、それ以上の力で再び襲ってきたのだ。

「大名屋敷は全滅か」
江戸は城を中心に、住居が堀で仕切られている。
外側は町民の町屋、内側は侍の屋敷だ。
そして天守閣のある、本丸の外側に二の丸、三の丸、西丸、北丸と幕府の施設が配置されている。

本丸には五層の天守閣があり、女性たちが住む大奥、将軍が政治を行う中奥が隣り合って並んでいる。
天守閣で火事を見守る将軍とその取り巻きたちは、蒼ざめているだろう。
城のまわりが燃え、徐々に火が迫る事実が手に取るように分かるのだ。

「少人数だとしてもこの混乱に乗じ、奴らはきっと現れる。すぐにでも行って天守閣を守ろう」
寅之助は、背中に雪之丞をおぶった菊乃と目を合わせた。
「わたしも行きます。徳川様を守ります」

「お待ちください。お銀様に会いに行ったお頭がもうすぐもどります。なんらかの指示があると思います」
平蔵の部下が寅之助に伝える。
お銀様は、お鈴の正式の名前である。

部屋から姿を消した次郎兵衛が、侍の姿になって戻ってきた。
腰には大小の刀を差している。
背後に、三人の若い供を連れている。