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剣豪じじい  4章(完結)

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4章


江戸に暮れが迫る。
神社や寺の門前で、羽子板や注連縄(しめなわ)が売り出される。
年の瀬市だ。
北風が吹き、江戸名物の砂埃が舞いはじめる。

剣豪じじいの松下寅之助は、お鈴の配下である顎の平蔵の部下の二人を従え、江戸を巡った。
相変わらず骨ばった体躯だったが、足取りはしっかりしていた。
神田川のほとりでお茶を飲まなくなり、頼みごとも相談ごともなくなった。
鶯谷には、お鈴の部下の顎の平蔵たちが住んでいたので、次郎兵衛の屋敷の菊乃と雪之丞は、必然的に連中にも守られるようになった。

しかし、どこかから半鐘が聞こえると、寅之助は上野の寛永寺に駆けつけた。
不忍の池を見下ろす高台から江戸を望めば、火事の規模がわかったのだ。
年が明けると、大名たちがぞろぞろとお城に出向く。
御三家から始まり、午後には中小大名や町役人なども挨拶にでる。
もちろん、最下級の御家人である松下寅之助には縁のない行事である。

時の応じ、お鈴から書面による連絡がある。
『会津藩主、保科正之の継室のおまんの方は、お閉じこめになった』という知らせだ。どのような罪なのかは分からなかったが、部屋からはでられない。おまんの方は以前にも大罪をおかしている。保科の側室であったおしおの方の娘が、加賀百万石に嫁ぐのを知ったとき、自分の娘よりも恵まれたその婚姻に嫉妬し、祝いの席で食べ物に毒を盛った。ところがその食べ物を間違えて自分の娘が口にし、死なせてしまうという笑えない犯罪である。

また『会津藩主の保科正之は、会津藩領内の浪人のすべてを拘束し、身体改めを行った』という報告だ。
会津藩主の保科正之は、密かに、それなりの手を打っていたのである。

正月の二日。
今年はじめての半鐘が鳴った。
半蔵門外の松平光長の大名屋敷が燃えたのだ。
五日には駿河台の中間町から火が出、朝まで燃えた。
しかし、いづれも延焼はなかった。

獅子舞や神楽(かぐら)で賑う正月が終わりかけた一月十八日の昼、遠く半鐘が鳴り響いた。
これがいつものように、簡単には鳴り止まなかった。
寅之助が長谷川次郎兵衛と一緒に遠くから流れる煙をながめていると、菊乃が雪之丞を背負って庭に出てきた。

「寅之助さま、なんだか怪しげな煙ですね」
「うん、そうだな」
「今日は、砂煙も舞い上がるほど風が強い。あれは本郷あたりだな」
江戸の空には、火事の煙とは別に、薄茶の土が舞い上がっていた。

次郎兵衛も、例の偽医者が発した『しろ、もやす、はやがね、あいず』の件は承知だ。
しかし、江戸城と本郷ではまったく方向が違う。
正月の茶会疲れした青白い顔で、次郎兵衛が遠くに目を据える。
「ここのところずっと雨も降ってねえから、かなりやばいぜ」

次郎兵衛は気になる一言をつけ加えた。
からからに乾いているので、延焼するかも知れないと言う意味だ。
「あ……」
そのとき、舞い上がる煙を一緒に眺めていた菊乃が声をあげた。

「寅之助さま、雪之丞が……」
「どうした?」
「足で……背中を蹴った」
「蹴った?雪之丞が?」

寅之助は、あらためて半鐘を耳でたしかめ、木立の向こうの煙を見なおした。
「あの火事は、油断できねえ」
雪之丞の秘密を知らない次郎兵衛が、なんの話をしているのかと眉を寄せながら、厳しい顔で遠くに目をやる。

煙が太く、そして北風に煽られ、千切れてたなびいていた。
「おっ、飛び火だ。薬研町あたりから煙だぜ」
「おっと、今度は湯島方面からだ」
手前に見える森から、ぼっと煙が吹きだす。

「寅之助さま、このままですと神田も危ないのではないですか」
雪之丞を背負った菊乃の言葉だった。
湯島と神田ではまだ距離があった。
寅之助は、火事がおきたら鶯谷に逃げてこい、と倅の重太郎には告げてあった。

でも油断はならなかった。
いまのうちならば、まだゆうゆう逃げられる。
「とりあえず、寛永寺までいってみよう。ようすを見て城下を偵察し、いけたら組屋敷までいって見る」

次郎兵衛と門弟の二人、顎の平蔵の部下もついてきた。
五人で畑の路を、そして上野の森のなか走った。
寅之助も皆にまじりj必死に走る。
息が切れたが、喘ぎながら、やっと寛永寺にたどり着いた。

境内をぬけ、忍の池に面した高台の墓地にたどり着く。
柵越しに眼下を眺める。
すでに、池のむこう一帯は、右から左の方向にむかう風にあおられ、火の海だった。
木造の家が舐められるように風下に炎をむけている。

速くも神田一帯が煙に包まれ、あちこちから、新たな火があがっていた。
神田の向こう、駿河台の先には、敷地も広く、緑もゆたかな大名屋敷があったが、北の横風に煽られ、炎と煙しか見えない。
あちこちで鳴る半鐘がむなしい。

御家人屋敷のあたりも、火に包まれている。
うまく逃げてくれたのかと、はらはらしながら寅之助は一帯を見守った。
家族の心配と共に、この火事の爆発的な力を感じ、恐怖を覚えた。
『雪之丞、このことを知らせたかったのか』

人々が協力し、火消しにかかれる火事ではなかった。
一瞬にして、手が付けられなくなっていたのだ。
寅之助は、灰色にかすむ天守閣を見守った。
江戸城は無事である。
湧きあがる煙に抵抗するように、天守閣が厳然と立ちすくんでいる。

「まさかこれがやつらが仕組んだ火事だと……」
寅之助は思わず口にした。
「いいえ、ちがいます」
次郎兵衛と四人の男たちが、そろって首をふった。

その気ならば、過去にも格好の風はいくらでも吹いた。
天守閣を燃やし、江戸を灰にしようとするのであれば、遠い本郷あたりに火を付ける馬鹿はいない。
しかし、今回はどうやら大火に発展する可能性を秘めていそうだった。

「寅之助殿。われわれはこれから火元をたしかめに行ってまいります」
顎の平蔵の若い部下二人が、寅之助に報告した。
忍者でもある二人は、火元の確認と火事のきっかけを調べようというのだ。
二人は手拭いで頬被りをし、柵の右手の階段を下りて行った。

すぐ下の池沿いの通りは、避難する人たちが集まりだしていた。
「おーい、父上」
「寅之助おじいちゃん」
階段の上の柵に手をかけている寅之助は、自分を呼ぶ声を聞いた。
荷物を背負った三人が、階段を登ろうとしていたのだ。

火事の時は気を付けろ、危なさそうな時は逃げてこいと注意してあった。
「父上の助言があったので、だれよりも早く逃げだしてきました。ああよかった」
ふだん胡散臭そうに顔を見合わせている倅の重太郎と親父は、この時ばかりは互いにうなずき合った。

階段の上で荷物をおろそうとしたが、あとからもぞろぞろと人が登ってくる。
みんな、素早く危機を感じ取った避難民だった。
次郎兵衛の門弟の一人が寅之助の息子の嫁、夏江の肩から荷物を外し、自分で背負った。
寅之助が孫の平助を抱え上げた。

「よかった。さあ、いこう。避難民がどんどんやってくる」
周囲がみるみる人で埋まりだした。
一行はもと来た道を、鶯谷にむかって引き返した。
歩きながら倅の重太郎が話しかけてくる。