剣豪じじい 3章
小紋の着物に幅広の帯を締め、正座の姿勢にもどったお鈴が、静かに笑った。
7
日差しの良い中庭に、かけ声が響く。
「えい、やあ、えい、やあ」
「え、や、え、や」
菊乃の素振りである。
母親の声を真似、庭に面した居間の廊下に座った雪之丞が、両手を上げ、かけ声をだしている。
菊乃親子は、もう御家人の組屋敷には戻らない。
安全のため、長谷川次郎兵衛の屋敷で暮らしている。
いずれ会津藩二十三万石の保科正之から、正式に迎えがくるだろう。
お銀様と呼ばれているお鈴の部下、二名も用心棒として次郎兵衛の屋敷に住み込んでいる。
白襷で剣を振るう、菊乃の頬が赤い。
元気いっぱいの若い母親だ。
五人の曲者が一度に現れたきり、以降、怪しげな人影はない。
普通であれば、お鈴は即座に菊乃の存在を報告し、会津藩からの遣いが飛んでくるはずである。
だが一向にその気配がない。
まさか菊乃を囮に『正妻』の暗殺者がでてくるのを待っているのか。
それとも、三千石の新旗本の誕生の場合を調べ、手間取っているのか。
あの日お鈴は、別れぎわにこんな言葉を漏らした。
「多くの民のためならば、嘘も許される。雪之丞の父親になれ」
どう答えるのか確かに迷っている。
剣豪じじいの生活には満足しているが、今は『江戸の火事』のほうが気がかりだ。
『正妻のお万の方』についてもお鈴に任せている。
だが、医者の姿にやつした密偵の『しろもやすはやがねあいず』の一言は、放っておけない。
幕府の目付の配下にあるお鈴は、さっそく部下を会津に乗り込ませ、菊乃たちを襲った浪人たちを調査した。
結果、行方の知れぬ十数名をのぞき、会津城下で暮らす全員がただの浪人だった。
関係者はいち早く消え、江戸の浪人たちに紛れてしまったのか。
家康、秀忠、家光の三代で、改易した大名は百三十。
解雇された侍たちの数は、限りない。
当然、連中が団結すれば大きな力になる。
浪人を集めた由比正雪の反乱計画もあった。
改易の目的が徳川幕府の安定政策であり、反抗心のある藩主、規律に違反した藩主、風紀を乱した藩主、そして混乱を生じかねない後継者のいない藩主などが、否応なく取り潰されていった。
その結果、世の中は徳川の力に恐れをなし、規律に従うようになった。
そうして秩序が保たれ、国全体が安定していった。
残ったのは、あふれた諸国の浪人たちだった。
また城内の屋敷に戻ったお鈴は、手紙でこうも述べてきた。
《『江戸の火事』は心理作戦の可能性もある。江戸では三日に一度、小火(ぼや)が起きている。火事が起こるたび、徳川に反感を抱く浪人たちの仕業ではないか、という不安を為政者や住民に与えたいのだ。そしていつか条件が整ったとき、本物の火事を起こす。それゆえ、江戸の住民の不安を煽らないよう、この件については、くれぐれも口外を謹んで頂きたい。
追伸
菊乃様と雪之丞様は、お元気との報告を受けております.しかし、いろいろ問題があって公にお迎えできない現状です。さて、雪之丞の父上として、その時には共にお城にお上がりになりますでしょうか。決心つきましたらお知らせください》
鶯谷の野菜畑は三日ほどで柵が組みなおされ、踏まれた蔓ももとに戻された。
忍びでもあるお百姓たちが動きまわり、日に日に回復する緑の畑を眺めながらも、寅之助は江戸の浪人たちが気になった。
『しろ……もやす……はやがね……あいず』という言葉が頭の中でくりかえされる。
お鈴の部下の仕事なのだろうが、とにかく自分で歩きまわって浪人たちの様子観察しなければ、と足の底がむずむずした。
「菊乃、町を一回りしてくる」
いま寅之助は、次郎兵衛の屋敷の奥の八畳の部屋を借り住まいとし、菊乃と雪之丞の三人で暮らしている。
神田の組屋敷のほうがなにかと便利だったが、菊乃を守らなければならなかった。
「いってらっしゃい。お気をつけて」
見送りに出た菊乃が、外出時の安全を願い、寅之助の羽織の肩に火打石の火花を散らす。
菊乃は完全に女房役に徹し、周囲の者も二人が夫婦であり、雪之丞がまぎれもなく寅之助の子であると認めていた。
菊乃は、自分が会津藩藩主保科正之の娘の子である事実をまだ知らない。
自分と息子の雪之丞の命を狙う人間が、会津の浪人のほかに、正之の正室であり、自分の母親の次に奥方となった『お万の方』がいることや、自分の身分が徳川家の直径であることなども知らない。複雑な事情になるので、お鈴の助言もあり、寅之助は報告を控えていた。
とにかくこのままでは、徳川の血を引く菊乃との子をもうけた寅之助は、いやでも三千石の旗本として生きなければならなくなってしまう。
五十石の剣豪じじいが、いきなり三千石の旗本になるのだ。
上野の森をぬけると、木立のむこうに天守閣が見える。
城内の一画にお鈴の屋敷がある。
今のところ訪問はひかえているが、いずれ訪れなければならなくなる。
とにかく、江戸の浪人たちが気になった。
傘張り浪人の親方になった京橋の大野一馬を訪ねるつもりで、浅草橋から日本橋を目指す。
江戸の町は、日に日に人が多くなっているようだ。
商店街を歩く町人、商人、そして浪人。
どうしても浪人に目が行ってしまう。
京橋の木戸を潜ったときから、以前とようすが違っていた。
雑然としていた路地が、きれいに掃き清められ、塵一つ落ちていなかった。
長屋全体がしっとりと落ち着き、どの家も障子がきれいに貼られ、破れ目もなくなっていた。
怪しげな浪人がたむろしている気配もない。
商人風ともつかぬ数人の男とすれちがう。
「ごめんください」
家の前に立ち、声をかけた。
以前は、障子を開けたら刀を抜いた渋い顔の浪人が上がり框(かまち)に立っていた。
障子を開けたのは女中だった。
玄関の土間には半完成の傘が数本づつに束ねられ、山になっていた。
その傘の山を二人の少年が整理している。
「松下寅之助でございます」
声を聞き、傘の材料の山の間から大野一馬が顔をだした。
「だいぶ繁盛しているようだな」
挨拶抜きで寅之助が語りかける。
「おかげさまで、大繁盛です。この長屋のほとんどを私が借り受け、傘張りの作業場にしております。松下寅之助さま、ひさしぶりでございます。御恩は一生わすれません。何度か組屋敷のほうに挨拶に出向いたのですが、留守のようでした」
大野一馬は、商人風に髷を結い、着物も絣(かすり)の単衣(ひとえ)である。
ただしその上に親方らしく羽織をかけている。
「もうすっかり侍は捨てたようだな」
「はい、みんな松下様のお陰でございます。髷もこのように商人髷に結いまして、すっきりした気分でございます。松下様、失礼とはぞんじますが、こちらは仕事部屋になっておりますので、お茶もだせません。ご面倒でございますがとなりの部屋のほうでお話を」
「いやかまわない。ここで立ち話でけっこうだ。どうであろう。仕事を求めるご浪人はまだまだ増えておるのか」
「はい。増えております。ですが手先の器用なご浪人はあらかた登録済みでございまして、もうこの仕事を希望する者のなかに、適任者はおられないようでございます。もちろん、困窮な方にはなんとか手ほどきをいたし、稼げるような配慮はしております」