剣豪じじい 3章
「大野殿、私がご浪人を気にしているのは、物騒な考えを持ったかなりの数の者が江戸に潜入したとの情報を得、充分に注意するようにとお達しを受けておるからです」
変な浪人はいないかと聞こうとしたが、うまく言葉が浮ばなかった。
「物騒な考えと申しますと、以前の由比正雪の反乱計画とかに関係あるのでしょうか?」
つるつるの頭の後頭部に小さな髷をつけた、大野一馬は町人になった顔でじっと見返す。
侍のときにどんな地位にいたのか、興味のありそうな反応をしてきた。
「いやいや、ちょっとこっちに用があったので寄ってみただけだ。挙動不審の浪人がいたら知らせてくれ」
立ち去ろうとした背後に人の影が迫った。
振り向くと、背中に横幅の包みを乗せた大きな男が胸の結び目に手をかけ、立っていた。
包みは横長で肩幅からはみだしている。傘貼りの傘だった。
「親方、こちらのお歳よりは、あのときのお方でございましょうか?」
男はいきなりそんな言葉を発した。
「そうだ。いつも噂にしている松下寅之助殿だ」
大野一馬の答えを聞き、男は二歩ばかり下がって腰を折った。
「大変な剣術遣いとは知らず、いつぞやは失礼を申し上げました」
寅之助は意味がわからず、目を細めた。
大野一馬がさらにつづけた。
「松下様が二度目にこの長屋を訪れたとき、表で多少のいざこざがございました。そのとき、松下さまの剣さばきを目の当たりにしたのだそうです」
大きな男がいたことは覚えているが、はきり記憶にない。
そうだったかと男を見直すと、背中に傘の包を背負いながら腰に二本の刀を差している。
男は傘貼りを続けながらも、武士の身分は捨てていないのだ。
すると寅之助の目の動きをさっし、男が口をひらいた。
「失礼ながら申し上げます。拙者は成田要蔵と申します。じつはわたし、大凧作りが趣味でして、お殿様にお仕えしていたころから凧の材料である竹の籤(ひご)を肩に背負って城下をあるいていたもので、つい昔の癖がでてこのように」
「ほう大凧づくりの名人か」
「いいえ。名人と言われるほどのものではありません」
成田という大きな男は、さっきよりも深く腰を折った。
そのため、背負った傘の荷物が、束ねた一括りのまま首の結びを外し、頭をこえて落ちてきた。
仕上げの職人に渡す、半完成の十本ほどの蛇の目である。
凧作りの名人の仕事であるから、丁寧に仕上げられているだろう。
だが落下すれば骨がゆがみ、使い物にならなくなる。
しかし、傘の束は地面の手前でびたりと止まった。
寅之助が手前を、大野一馬が向こう側の端を掴んだのである。
「おみごと」
剣術の極意でもあるまいが、髷のある頭をおこした成田が驚きの眼で声をあげた。
「おぬし、変わった浪人であるな」
寅之助が思わずつぶやく。
目を合わせた三人が、ははと笑った。
寅之助はついでに、花井清十郎が住んでいた日本橋の十間店(じゅっけんだな)の長屋にも寄ってみた。
長屋の人たちと親しんでいたので、江戸に出てきたときは必ず寄っていくだろうと予想していた。
清十郎の長屋に寄ってみたところで、特別ななにかがある訳でもなかった。
浪人たちの世界が、少しでも覗ければそれよかった。
長屋のどん詰まりの部屋の住民だった花井清十郎は、もちろん留守だ。
留守と言うより、もうそこにはもう住んでいないのだ。
すぐとなりの広場には井戸があり、三人が尻をならべて洗濯をしていた。
一人がひょいっとふり返り、そこに立っている羽織姿の侍に気づいた。
そしてなにかをつぶやくとほかの二人も顔を振りむけた。
「まあ、もしかしたら清十郎さんが話してた剣豪じいさん? このまえも来たよね」
いきなり言われた。
「まあ、そうだけどね」
つい、寅之助は応じた。
「街道でやくざ者をやっつけたんだってね」
「年寄りのくせに、見かけによらず強いんだってね」
「子供を背負った、若い奥さんも一緒だったんだってね」
全員が手を止め、話しかけてきた。
花井清十郎が話していったのである。
「あなた、そんなに強いお侍なのに、なんだって情けない顔してんだい?」
「奥さんまでが、子供を背負ってやくざと喧嘩したんだって?」
どこか曲解しているところもありそうだったし、取り留めもなく話が長引きそうだった。
「色男の花井清十郎はいつここにきたんだい?」
寅之助はわざと色男の、とつけ加えた。
すると右端の若く可愛らしい娘が自分を指さした。
「あたしに聞いてんのかい?」
「そういうことだ」
すると、他の一人が茶化したように言った。
「またあんた、座布団腰に敷いて、いろいろ話し聞いたのかい?」
「座布団て……変なこと言うんじゃないよ」
「まあまあまあ」
剣豪が長屋の奥さんたちの言い争いのなだめ役になった。
「花井清十郎はいつきたんだい?」
「十日ほどまえだったよ」
「なにしにきたんだ」
「お代官様のお供だそうです」
お代官とは、花井清十郎が住む高塚村を知行地としている旗本のことである。
そのときみんなと無駄話をし、大家さんに挨拶をして帰ったという。
ざんばらだった髪も油を塗って整え、服装も清潔で、顔まで締まっていたとおかみさんたちは嬉しそうだった。
十軒長屋には、新しい浪人は住んでいないし、近所にも怪しい浪人はいないようだった。
こんど花井清十郎が長屋に立ち寄ったら、神田の組屋敷まで連絡してくれるようにと伝言し、寅之助は長屋を後にした。
鶯谷の茶の師匠、長谷川治郎兵衛の屋敷にいる事実は伏せておいた。
鶯谷は、お鈴の部下たちが住んでいる忍びの村である。
もちろん一般の人たちは、忍びの人が住む事実を知らない。
菊乃と雪之丞は、いつのまにか、安全圏の真っただ中にいたのである。
菊乃と雪之丞の命を狙う者が、会津の浪人一派の源兵衛の仲間としても、あるいはお鈴がもたらした情報によるところの会津藩の藩主の正室からの指令であるにしても、守りは固かった。
だが、さらに大きな問題としてでてきたのが、『江戸の火事……』である。
医者に扮した刺客が残した一言だ。
まさか徳川を恨むあまりに、浪人たちを使って江戸を火事で消滅させようという意図とも受けとれた。
しかし、会津の殿様の正室が、世継ぎ争いで江戸を火の海にすることは考えられなかった。
もしそんな計画があるのなら、なんとしても阻止しなければならない。
お鈴は忍びの頭として浪人を中心に探索をおこなっているが、江戸に流れてくる浪人は数万人にも達している。
しかも江戸の火事は頻繁におこっている。
遠く半鐘が鳴るたび、息を止め、寅之助は耳を澄ます。
だが、いまのところ、江戸を焼き払う大火事の気配はなかった。
江戸に、そろそろ北風が吹きだすころ、組屋敷に客が来た。
高塚村で寺子屋の師匠をしながら、田畑も耕している花井清十郎だった。
武蔵国の寺子屋の師匠から高塚村の役員になったようで、態度もそれにふさわしく落ち着いていた。
たった半年の変わり身である。
携えた刀は一本。侍を捨てたという証明でもあった。
「村は大きくなっていきます。収穫も自助努力で増加していきます。これからは農民の時代です」
なんだか希望に満ちている様子だった。
無聊浪人、花井清十郎の見事な変身である。