剣豪じじい 3章
「それに徳川様の破滅を願う、賊の侵入の知らせがあった。下手をしたら畑に毒をまかれ、気付かずに徳川様がやられる恐れもあったので、警戒をしていたところだ」
寅之助は、足もとの町医者の男に目をやった。
下半身や脇腹を血に染め、うんうん唸っている。
この連中が菊乃と雪之丞の居所を探しているのか、それともお鈴が言う大それた陰謀を企んでいる一味なのか。
寅之助はしゃがみ込み、坊主頭の町医者の胸を揺すった。
胸に竹槍の一撃を受け、血みどろである。
「命は助けてやる。だれに頼まれて後をつけたのか、なにが目的なのかを言え」
町医者は、ごろごろっと喉を鳴らした。
「さあ、言うんだ。言えば命は助けてやる」
坊主頭の医者の口元に耳を近づける。
すると、町医者の男は、乾いた唇を動かした。
かすかなつぶやきだった。
「あいづの、ろうにん……ほしなをやっつけ……えど……」
会津藩の浪人だと? 江戸だと? ほしなって会津藩主のことか。
「それで、なにをするつもりか」
「しろ、もやす……はやがね……あいず……」
ごほごほと血を吐きだした。
「おい……おい」
寅之助は呼びかけた。
だが、胸に受けた傷はかなり深そうで、そのまま息絶えた。
顎の平蔵の部下たちも動いていた。
傷を負ったほかの男たちを調べ、お鈴に報告する。
「会津の二人の侍は、会津藩の留守家老の命令で寅之助を追っていたと申しております」
「大工の男は、正室の命令だったと申しております」
「正室?」
「はい、会津藩の正室です」
お鈴が、うーんと呻く。
6
「母親の名はお菊。岩城藩主の娘で菊姫と呼ばれ、保科正之が会津に移る前の高遠藩の藩主だったとき、十六歳で嫁入りした。嫁いだ高遠の城ではお菊の方と呼ばれ、翌年には男の子と女の子の双子を産んだ。ところが占いを信じるお付きの家臣が、二人を同時に育てると災いが起きると警告した。しかし、若い藩主は信じなかった」
そこは鶯谷の長谷川次郎兵衛の屋敷、奥の書院の座敷である。
お鈴は、小紋の着物に幅広の帯を締め、清楚ないでたちである。
もちろん乞食の面影はどこにもない。
寅之助はお鈴と向かい合い、正座の姿勢でかしこまっている。
「のう、寅之助、膝を崩しなされ」
「とんでもない。わたしは五十石のただの後御家人です」
四畳半と六畳二間に台所があるきりの組屋敷と、旗本待遇として城内に屋敷を与えられているお鈴とは雲泥の差だ。
「それなら、おれが胡坐をかこう」
お鈴は『おれ』と言い、敷いた座布団を横にずらし、じかに畳に座った。
そして足を組みなおすと、小紋の着物の裾をめくり、胡坐をかいた。
「お鈴殿、無茶はいけません」
寅之助は手で制したが、お鈴の白い膝小僧が剥きだしだ。
「分かりました」
お鈴の膝小僧から目をそらし、寅之助も腰をあげ、胡坐を組みなおした。
その瞬間、寅之助の頭に、武者修行時代のお鈴と過ごしたなまめかしい昔が蘇った。
若き日のお鈴の肢体は妖艶だった。
そして、こんなときはどうなったか━──。
二人は目と目を合わせ、ふふっと笑った。
「では、続けよう」
お鈴は、胡坐を組んだ膝頭に左右の手を置いた。
「占いの予言を拒否し、双子を手元で育てた岩城藩主の正之だったが、世継の長男が三歳で夭折し、翌年には二十歳だった母親のお菊の方も亡くなってしまった。災いとはこのことだったかと若き藩主は、お付きの高女に命じ、女の子のほうを目の届かぬ場所で育てるよう命じた。そのとき女の子は、母親のお菊の名を取り『菊乃』と名付けられた」
「菊乃……」
そうか、と寅之助がつぶやく。お鈴が冷静に続ける。
「時間ははしょるが、それから何年もたち、会津の藩主でありながらほとんどが江戸詰めであった正之は、菊乃が男の子を産んだという報告を江戸で受けた。その名は雪之丞。菊乃の父親は間違いなく会津若松二十八万石藩主、保科正之である。保科正之は、三代将軍家光のご落胤であり、徳川の幕閣の一人である。ようするに雪之丞は、会津藩主の血を受け継ぐと同時に徳川家の血をも受け継ぐ男の子としてこの世に生まれたのである」
胡坐をいて気楽になったつもりだったが、五十石取りの御家人である寅之助の顎から首にかけ、鳥肌が走った。
「そこで、あらためて確かめたい」
お鈴が、固い口調で告げる。
「忍びを走らせた情報だが、雪之丞の父親はまこと、剣豪じじいの松下寅之助なのかね?」
膝頭に両手を乗せ、心持ち身を乗り出すお鈴。
自分が、とんでもない立場にある事実に気づいた寅之助が、恐ろし気にお鈴を見返えす。
重要な答えを迫っているはずなのに、お鈴の目つきがどこか緩んでいる。
なんだろうと戸惑いながら、寅之助がゆっくり口を開く。
「実は、それは偽りだ。本当の父親は保科正之に仕えていた家老で、剣術遣いの山田青雲斎輔矩殿だ。その辺の理由で親子共々命を狙われていると菊乃が言うので、私が父親であると宣言し、身代わりになったのだ」
お鈴に嘘はつけない。
ところがお鈴はそんな寅之助を見つめ、皺のある細い首を左右に振った。
「会津若松の菊乃の屋敷にいたオヨネという女中が、菊乃が産んだ子の父親は寅之助という侍だと喋っているのを、われわれは耳にしておる」
忍びの大頭(おおがしら)であり、幕府の目付の配下であるお鈴は、なおもそう主張した。
それは違うと寅之助は心でつぶやく。
そのときオヨネという女中は、青雲斎の子だと喋ったはずだ。
菊乃が会津の浪人の源兵衛からそれを聞き、そのいきさつを寅之助に話してくれた。
「あのな、寅之助殿」
お鈴が真顔になった。
「このさいは、あなたの子にしておきなさい。知らん顔して徳川家の親族として二千石の大名になってしまいなさい。おれが上様に申告するので嘘はばれない。やろうとすればできるぞ。若き日に艱難辛苦の修行に励みながら全国をめぐり、それを望んでいたではないか。とにかくいい機会だ」
急になんだ、どういう話だ、と寅之助は無言でお鈴に問いかけた。
「このさい、おもいきって雪之丞の父親になるんだ。そして二千石の大名になるんだ」
お鈴は表情も変えず、大それた提案を繰り返した。
「まさか、本気か」
寅之助は高鳴る胸を右手で押さえた。
一瞬、倅の重太郎、嫁の夏江、孫の平助たちの顔が浮かんだ。
二千石の大名を申し受けるとなれば、部下として新たに三十人ほどの家来が必要だ。
雪之丞を嫡男とし、菊乃を妻として女中にかしづかれ、悠々と暮らせる。
「すぐに答えなくていいよ。昔の寅之様への恩返しのつもりだ。それにおれは寅之助様が好きだったしな」
皺に隠れそうになった七十歳ちかいお鈴の目のまわりが、ぽっと赤くなったような気がした。
おいよせ、と寅之助はあわてた。
「お鈴さん、ありがとう。いろいろ問題もありそうだけど、とにかく考えておく。それより、おれをつけてきた大工の男は『正妻の命令だ』と言ってたが、これはどういう意味なんだ。正妻ってだれだ?」
さっきから気になっていたし、話題を変えたかった。
自分をつけてきて、斬り合いまで演じた五人の男たちは、お鈴の部下の顎の平蔵とその家来に捕まった。
だから締め上げられ、白状させられ、お鈴が報告を受けているはずだ。