剣豪じじい 3章
寅之助は、半月ほど前に交わしたお鈴との会話をふと思いだした。
『徳川様は、国の豊かさは民の豊かさである、と言う道理に気づいたそうでな』
お鈴は難しそうな言葉をならべた。
『民ってだれのことだ?』
『農民と商人だな』
『おれたち下っ端の旗本は入らないのか』
『農民と商人が豊かになれば、他の者も自然に豊かになるそうだ』
お鈴も元農民であり、自分の村が虐殺の憂き目に遭った記憶からしても、夢のようなお定めだった。
そのとき寅之助は、ああそうですかと聞き流したが、どうやら武力で他の富を奪う時代が終ったと宣言しているようでもあった。
だが、豊かさが拡がってゆくという考えはよくわからなかった。
「最近、村でなにか変わったこととかはどうかね?」
寅之助はお鈴の言葉を思い浮べながら、花井清十郎に訊いてみた。
「そうだなあ」
花井清十郎はちょっと考え、すぐにうんとうなずいた。
「まだ噂にすぎませんが、荒れ地を畑や田んぼに開拓すれば、自分のものになるという御触れがでるそうです」
「新しい田んぼを作っても、年貢を納めなくてもいいということか?」
「そこまではわかりません。なんでも、働けば働くだけ収入が増え、豊かになる世の中がくるのだそうです」
花井清十郎も、ほんとうかな、という面持ちで首をかしげる。
「もしそうなれば、村には人手が必要になるし、浪人がどんどん百姓になってもよさそうだがな」
高塚村は百軒以上もの大きな村だ。
豊かな村造りは、あてのない浪人の格好の仕事になる。
侍とは言え、殿様に仕えながら農作業に精をだしていた家来も大勢いたのだ。
すると花井清十郎はこんなこと言いだした。
「たしかに浪人が村を訪ねてきます。しかし、大方は裏街道を行き来する渡り浪人がほとんどです」
「渡り浪人だと?」
寅之助は、はじめて耳にする言葉だった。
「はい、表の街道とはちがって、村と村を結ぶ路を南から北まで旅をし、村々のほどこしで生きている浪人です。村の農民は、やってくる連中のために食料や路銀を用意し、名前を聞いても偽名を使うので、出身地だけを聞いて立ち去ってもらっています。それもここのところ、会津の浪人が何人か続いたので、ちょっと不思議な気がしました」
突然、思わぬ報告だった。
「続いたというと何人くらい?」
「三人くらいかな。ふつう、同じ故郷のものはめったに通りません」
寅之助は、なんだ、とつぶやきかけた。
十人とか二十人とかを予想したのだ。しかし、三人だけでも火事はおこせる。
「その三人は、江戸で騒ぎでもおこしそうなやつだったかね」
その質問に、花井清十郎は、え? という顔をしかけたが、すぐ冷静になった。
「はっきり記憶はしていませんが、くたびれ果て、気力が失せていたような気がします。元気そうであれば引き留め、農民になるようすすめたりしますが、その気にはなりませんでした」
帰農する気の浪人は、江戸に出てくることはなかった。
侍の身分を失った時点でそのまま地元に残り、新しい殿様もとで農民になるのである。
江戸にでてきた浪人たちは、剣術に自信があれば道場をひらく、学問に自信があれば、寺子屋や手習いの師匠になる。何らかの才能があれば文人や戯作者、俳人、茶人、書家、画家になる。
また現実的には、江戸の都市計画のさまざまな工事に、人夫としても多くが携わった。
利根川の流れの方向を変える大規模工事、そして石神井川から江戸に水をひく水道工事などに多くの労働力が必要だった。
また、意外な結果だが、江戸で店を構える商人のうち、なんと四分の一がもと侍であったという事実もあった。
これらは、密かに浪人を調べているお鈴からの知らせである。
もちろん悪い例もある。
辻斬り強盗をする者、博徒の仲間に入って用心棒を兼ねる者、町のならず者集団に出入りし、やくざに身をやつす者、売り食いで生計をつなぎ、武具にはじまり、道具がなくなると娘を売り、最期は武士の身分を売ってしまう者などだ。
江戸の人口は七十万、そのうち町民が三十万、残りが武家や僧侶の四十万。
そして浪人が三万。ちなみに由比正雪の乱のとき、未遂ではあったが加担した浪人は二千人である。
ここらから『江戸を火の海にし、天守閣閣を燃やす』計画の怪しげな一派を探しだすのである。
会津では、会津浪人の源兵衛を追い詰め、すべてを白状させようとしたが、忍びの者に殺された。
会津には、藩主である保科正之に、そして同時に徳川に恨みを持つ者、そして思わぬ敵、会津藩主の保科正之の正室であるお万の方が、側室や側室の娘が生んだ子の命を狙っていた。
●4章に続く