悠々日和キャンピングカーの旅:⑪信州の旅
久し振りに海を見たあとは、海沿いにR8と信越本線が並走し、走りながら海が見える状況になった。先ほどの公園のすぐ下の海岸はテトラで埋め尽くされていたが、今走っている場所の海岸は砂浜で、潮の流れで、砂が溜まったり削られたりするのだろう。面白いものだ。
柏崎市に入ってからは、柏崎港に行ってみた。
海に突き出ている防波堤の岸壁では、多くの人がサビキ釣りをやっていた。その先に見えたのは「柏崎港観光交流センター 夕海(ゆうみ)」という名称の、道の駅ならぬ「海の駅」だった。駅舎内を見て回ったあとは屋上に上り、わずか数メートル上がっただけだが、港の風景を見渡すことができた。
「ジル」に戻り、ダイネット内で小休止を取りながら、これから向かう先のことを考え始めた。
その時、ふと気づいたのは、上越市(旧直江津市)には上杉謙信の春日山城、今は城址だが、そこに立ち寄ることをすっかり忘れていたことだ。確か、「春日山城跡ものがたり館」があったはずで、しっかりと勉強したい気持ちもあり、次回は必ず立ち寄ることに決めたが、いつになるやら・・・、でも、春日山城址は逃げないので、次回に期待を込めた。
このあたりを旅の折り返し地点にしようと思い始めた。
柏崎から日本海沿いに北上するルート(R352)は別の機会として、ここまで走ってきたR8を走り続け、内陸部の長岡まで走ることにした。そこを折り返し地点として南下を始め、信濃川に沿って遡り、小千谷そして十日町を通過して、新潟県から長野県に戻ることに決めた。
以上のルートを考えながら、ロードマップを見ると、長岡の東方向には福島県の猪苗代湖があった。既にこんなに遠い北日本まで来ていたことに気が付いた。
日本を北上する際は、この都市の次はあの都市のように、頭におおよそ浮かぶのだが、日本海側の都市から見た同じ緯度の太平洋側の都市が分からない。その逆もそうだ。
こんなことを書いていて思い出したのは、高校の地理科目の時間に、世界地図で、赤道や南北の回帰線が横切る国や主要都市を憶えていたものだが、私の頭の中で、この狭い日本の東西の都市がつながっていないのは、少し情けない気がした。
これからも「キャンピングカーの旅」を続けていけば、日本の白地図に、主だった都市の位置を東西の関係も正しく書き込めるようになるのでは・・・、そんな気がした。
そういえば、この柏崎には、大学3年と4年の間の春休みにバイクで日本一周をやった際に泊ったユースホステル(YH)があったはずで、ネット検索したところ、既に閉館になっていた。
約半世紀も前のことだが、このYHでの出来事やYH内部の記憶は殆どなく、唯一、アルバムに貼っているバイクと一緒に撮った写真のYHの玄関をぼんやりとしか思い出せない。
その場所に行ってみたいとも思ったが、場所が分からなかった。少し残念だったが、柏崎や日本海をあとにして、長岡を目指した。
R8を走っていると、車窓風景は低い山の景色になった。そこは東頚城(ひがしくびき)丘陵で、そこを抜けて、越後平野の南端に広がる長岡市に入った。関越自動車道の下をくぐると、やけに新しい道の駅「ながおか花火館」があり、立ち寄ることにした。
日曜日の今日、駐車場はほぼ満車で、大き目のキャンピングカーを停める場所探しがかなり大変で、駅舎からはかなり離れた場所に停めざるを得なかった。
駅舎の中の「花火ミュージアム」は立派なもので、長岡花火大会の素晴らしさを体感でき、それは日本有数の花火大会だと改めて理解した。
私の地元の静岡県西部の「ふくろい花火大会」では約3万発も打ち上げられ、40万人の来場者を数える規模の大きな大会で、且つ花火師の新作の競演も見られ、私は密かに日本一だと思っている。
「安倍川花火大会」を誇りとしている静岡市の知り合いが「ふくろい花火大会」を見て、最初から最後までスターマインだと言わしめたほどの目が離せない連続する花火大会だ。
長岡花火大会は2日間で2万発とのことで、打ち上げ数はそれほど多くはないのだが・・・、ではなぜ、日本中に知られた花火大会なのかと、その理由が分からなかったが、多分、量ではなく質とか、信濃川を挟んで広大な空間で花火を眺められるとか、色々と人を魅了するポイントがあるのだろう。たとえば、花火大会をテーマにした道の駅が建てられ、ブランドの浸透に役立っているようだ。
そう考えると、我が袋井市は認知させる工夫がまだまだのようで、SAもPAも、道の駅もない。
この新しい駅舎内をぶらぶらしていて思い出したのは、約10年前に取材させて頂いた長岡市在住の方だった。
地球温暖化防止・排気ガスゼロ・CO2削減を目的に、国内で量販EV車が2010年に発売されて以降、その台数は微増しているものの、市場におけるEV車の比率はまだまだの状況だった。
その現状から彼は、新車だけではなく、国内のおびただしい数のガソリン車を何とかしないと日本市場でのEV化が進まないと考え、どちらかと言うと、小規模な自動車修理工場が国内市場のガソリン車をEV車に改造(convert)することを提言し、新規事業を推進していたパイオニアだ。
残念ながら、スマホには彼の連絡先が入っていなかったが、会社名で検索すると連絡先が分かった。電話すると、最初は戸惑った様子だったが思い出してくれ、すぐに会えることになった。
R8からR17(長岡東バイパス)に入ったところの駐車スペースに彼の車が到着しており、10年振りの再会になった。「ジル」の中で、アップルジュースを飲みながら、彼の近況を伺った。75歳の彼はまだまだお元気で、この再会がきっかけで、Lineのつながりができ、早速、色々な情報が届いた。
再会のひとときのあと、少し長岡市街に戻り、かつて乗降したことのあるJR長岡駅やその周辺を走って、想い出との照合をやってみたものの、やはり、以前に歩いた場所や泊まったホテルの入口くらいしか記憶に残っていなかった。ところが、駅前通りを走っていた時、制服を着た高校生の男女が手を繋いで、いい感じで歩いていた風景を私が微笑ましく見ていたことを思い出した。印象深い光景だったのだろう。
内陸の長岡は新潟県第2の大きな都会だ。
これまでの私の人生において、比較的に海に近い北九州市や熊本市、今は浜松市に近い場所に住んでいることから、肌感覚だが、なぜ、内陸部に大きな都市ができるのか、その理由が分からなかった。
そこで、長岡が大きな都会になった歴史に興味が湧き、調べた。
地方都市としての起源は、多分、越後平野の南端で、山地に面し、信濃川に面していた場所だったことから、林業や農業の物産の集散地となり、鉄道が敷かれてからは、これまで以上の交通の要衝としての機能がさらに強くなり、商業活動がさらに発達したのであろう。
新たに知った内容としては、付近に石油が発見され、その周囲の産業が興り、発達し、今に至っている。加えて、天然ガスは国内生産の大部分を占め、その生産量は現在全国1位だ。
作品名:悠々日和キャンピングカーの旅:⑪信州の旅 作家名:静岡のとみちゃん