剣豪じじい 2章
「わたしも、だれがなんのためにわたしと赤子を消そうとするのか、知りたいのです。わたしが会津にいけば、きっと物事が速く進みます。赤子を連れていれば敵もすぐに動きだし、仕事がやりやすいだろうと次郎兵衛様が」
「そう言ったのか?」
「はい」
もどれとは言ったが、内心ではどうしたものかと迷っていた。
次郎兵衛が認めたというのなら、すこし様子を見るか、と寅之助は結論を先送りした。
寅之助はまた杖を突き、腰を曲げた。
ついでに後ろを確かめると、無聊浪人の花井清十郎が、二百メートルほど離れた街道の真ん中で立ちすくみ、空を見あげていた。
菊乃の背中では、雪之丞がくくっと声をあげ、足を蹴っていた。
「お乳をやらないと、泣き出しそうです」
少しまえに殺気をはらんでいた目が、母親の優しい色に変わっている。
「あそこで一休みしよう」
寅之助が、行く手の小さな茶店を杖で差した。
「だめです寅之助様、私たちは乞食の親子なのです」
「おっと、そうだったな。もうすこし先に行って橋を渡ったら休もう」
7
荒川を越えると、農家が目についた。
行き先に、街道に覆いかぶさるように欅(けやき)が枝をひろげていた。
そこは藁葺(わらぶ)き屋根の農家の庭先だった。
庭で小柄なおかみさんらしき人が、広げた筵(むしろ)に豆を干していた。
「ちょっと休ませてください」
寅之助が声をかけると、手を休めることもなく返事が返った。
「どうぞ」
寅之助と菊乃は欅の根元に腰をおろした。
待っていたように、菊乃が雪之丞を背中から胸元に抱えなおした。
そして、襟元からだした乳を口元にふくませる。
「あなたたち、旅人なのか乞食なのか、どっちだね?」
ふいに頭上で声がした。
仕事の手を休め、おかみさんが二人連れをのぞきにきていた。
雪之丞に乳を吸わせながら、菊乃が答える。
「わたしたち、乞食の旅人なんです」
「それならもっと乞食らしくしなきゃ、だめだね」
そのとき、おかみさんがなにを言っているのか、二人には分からなかった。
「すみません。乞食になったばかりですので」
菊乃が素直に応じた。
「ちょっとまってな」
おかみさんは庭を横切り、家のなかに消えた。
そして手に二本の柄杓(ひしゃく)を持って姿を見せた。
「どんな事情があったんだか知らないけど。はい、これ」
おかみさんに言われたように、二人は柄杓を差しだして歩いた。
すると、すれ違う江戸に向かう旅人や街道に面した家の住民が、柄杓に銭を落としてくれた。
杖をついた老人と赤ん坊を背負った娘への哀れみは、想像以上だった。
二人とも、柄を捧げていられないほどすぐに銭でいっぱいになった。
「おありがとうごじゃい」
寅之助は、はじめて柄杓に銭を入れられたとき、本物の乞食の気分でお礼を述べた。
懐にはかなりの路銀が入っていたが、本物の乞食になったようで面白かった。
家が途切れ、人通りがなくなると柄杓をひっこめ、杖をやめた。
杖を突いていては道程(みちのり)もはかどらない。
寅之助は腰をのばし、菊乃に代って雪之丞を背にした。
温かいに肉のかたまりが、寅之助の背に頬をこすりつけ、ぐいぐいと足を蹴る。
「喜んでいますよ、寅之助さま」
身軽になった菊乃が肩を弾ませ、ならんで横をあるく。
乞食を装って結い上げた二人の髪が、頭のてっぺんでそろって揺れる。
「雪之丞っていい名前だけど、まるで役者みたいだな」
「組屋敷の引弓町から鶯谷の次郎兵衛様の屋敷にいく途中、神田川岸に芝居小屋がありました。そこの小屋の看板にでていた名前です。いい名前なので拝借しました」
菊乃はすましている。
越ケ谷の宿に着いた。
橋を渡ったところの木賃宿をのぞいた。
宿の主は、乞食とおぼしき二人連れを怪訝(けげん)そうにながめた。
「一晩三文だ」
差しだす銭を受け取り、さらに告げる。
「裏の物置だ。母屋(おもや)には、ほかのお客さんもいるんだしな。煮炊きは物置の前の竈(かまど)」を使ってくれ」
乞食の旅を思いついたとき、どこか適当な場所で眠れればいいと考えていた。
だが今は、雪之丞を背負った菊乃が一緒だ。
野宿はできない。
宿で乞食と認められ、裏の物置での煮炊を許してもらった。
屋根の下で寝られれば、どこでもよった。
言われたように大部屋のわきをとおり、裏にまわった。
大部屋は、日光参りの旅人たちで賑わっていた。
そこには物置小屋が建っていた。
壊れた家具や大八車が置かれ、その脇に竹やら木材の切れ端、その横に薪(たきぎ)が山になっていた。
軒下にはすでに一人の先客がいた。
「こんばんは」
寅之助が菊乃を従えて姿を見せると、屈んで薪に火を付けていた先客が顔を上げた。
白髪の老婆だった。
着物は着ているが、胸元の襟が垢でてらてら光っている。
見開いた細い目の中で、二つの点が浮かんでいる。
地面にしゃがんだ左右の足は、泥だらけだ。
本格的な乞食のようだった。
しかし、そんな人間でも三文払えば、木賃宿の裏の物置の軒下で一夜を明かせるのだ。
貧しい者に対する喜捨(きしゃ)の心だ。
乞食でも施しを受けながら、街道を旅して歩けるのである。
旅人は、身分によらず助けなければならない、という法もある。
「おめえら、なに者だよ?」
老婆がいきなり、二人に言い放った。
寅之助は、老婆のその口調に途惑った。
「はあ、乞食ですが」
寅之助はけげんな面持ちで、老婆に応えた。
「乞食だとお?」
老婆はあげた顔を斜めに傾げ、寅之助と娘をもう一度、見なおした。
「その格好と物腰で乞食に化けたつもりかい?」
「……」
その物言いに、寅之助は持った樫の棒の先を老婆につきつけた。
「お前こそ、何者だ。ただの乞食の婆あじゃねえだろ」
だが老婆は、首をちぢめ『ひっ』と声を漏らすでもなく『お助けを』と哀願する訳でもなかった。
鼻尻に皺をよせ、かすかに笑った。
「おめえこそ、ただの乞食のジジイじゃねえだろ?」
平然と乞食の老婆は、言い返す。
寅之助とババアが、睨み合った。
相手にしてはならない、と分かっていたが、つい反応してしまった。
老婆は、樫の棒の先の感覚を眉間で受けながら、寅之助を見守る。
寅之助は、はっとなった。
白目の端に、見覚えのあるかすかな点があったのだ。
「まさか……」
声を押し殺した。
「そう言うおめえも……まさか」
老婆も細い目を見開いた。
「お鈴」
「寅之助」
同時に言い合った。
両者は肩から力を抜いた。
「五十年前だ」
両者がまた同時に言い放った。
寅之助は、剣の修行で各地を徘徊していた。
そんなとき、弟子にしてくれと申し込んできた女だった。
若い男と女だ。ただの仲では済まなかった。
しかし、女は自分の故郷についてはなにも語らなかった。
素早い身のこなし、ふと見せる忍び足、不思議な女だった。
美人ではなかったが、どちらともなく馴染んだ。
そのまま一緒にいれば夫婦になっていただろう。
だが女は、ある日、ふいに姿を消した。
『剣の修行ありがとう。夫婦にはなれません。行かなければなりません』そんな書き置きがあった。
それきり、消息が途絶えた。
たった一年の付き合いだったが、いつまでも胸に残った。
「お鈴。ここでなにをしている」