剣豪じじい 2章
「見てのとおりだわい」
「乞食だってかあ?」
「食う困らねえからな。街道を歩けば、銭も食い物もみんな恵んでくれるわ。こんな平和な世の中、おれは想像もしねぇかったぜ」
くくくっと笑う。その笑いには、信念や自信が滲んでいた。
「お鈴、おれはおまえが忍びだって見通してたけど、そうだったのか?」
「そのとりだ。任務を終えて故郷に帰ったら、おれの村は無くなってた。敵方についた忍びの村の奴らが襲ってきてな。村人たちは柱にくくられ、山の鳥に食われてた。いやいや、もうこの話はおわりだ。それよりおめえらも、そこの竈で飯焚きな」
お鈴は、悲惨だった昔の話を打ち切り、二人の背後を顎でしゃくった。
戦国時代は侍たちばかりでなく、村同士でも食料や財産を奪おうと武力をふるった。
山間(あい)の入り組んだ地で複雑に対立し合う村などでは、他の村や地域の様子を常に警戒していなくてはならなかった。
それで、忍びが発達したのである。
そしてそんな地方の忍びの者が、いつしか他国の領主に雇われるようになった。
「ところでおめえ、その乞食の成りでどこまでいくんじゃ」
竈の石組の具合をなおす寅之助に、お鈴が問う。
「会津だ」
「その母子の故郷だな」
お鈴はそこに立っている、菊乃と背中の子供を見守る。
「訳がありそうだな」
「訳なんかねえよ」
「なんにもねえのに、わざわざ乞食の格好なんかするかよ」
いひひひとお鈴は笑った。
「本物の乞食を装うんなら、向こうに着くまで、からだ拭いたり、顔洗ったりするんじゃねえよ。会津に着くまでには、立派な乞食になってるさ」
寅之助は五十年前の弟子の助言を、複雑な面持ちで聞いていた。
8
翌朝、鶏の声で目を覚ました。
もうお鈴の姿はなかった。
お鈴のいうとおり、二人は顔も洗わず宿をでた。
左右にならんだ旅籠(はたご)や店の軒のあいだに、江戸と日光へむかう旅人が上下の列になっている。
旅人は朝が早い。
杖を突いた老人と赤子を背負った娘の連れは、人目を引いた。
農家でもらった柄杓を出すと、次々に銭が落とされた。
「人気が絶えたら柄杓も杖もやめ、ふつうに歩こう。この先に中田(栗橋)の関があるが、手形は持っているのか?」
中田の関は、暴れ川(利根川)を渡ったところにある。
渡りは舟だ。
「次郎兵衛様が『日光東照宮参詣』の通行手形を用意していてくれました」
参詣の手形であれば、女性の通行も容易だ。
次郎兵衛はもしかたらと、菊乃の手形を用意していたのだ。
寅之助も、組頭からもらった日光参りの手形である。
中田の関をこえれば、会津まで街道に関所はない。
「そういえば、江戸に逃げてきたときの手形はどうしたんだ」
菊乃は、会津から一直線に江戸に逃げてきた。
「お金を出し、役人のいないところを小舟で渡りました」
すました顔で告げる。
「関所破りじゃねえか」
「いけないんですか?」
菊乃はおどろいた顔をむけた。
菊乃が下総の国から武蔵国に着こうというとき、脇道から頬被りをした中年の男がでてきた。
「赤子をおぶってどこにいきなさる?」
道行く人たちが、この先に関所があると話していた。
関所がなんなのかをだれかに尋ねようとしたとき、声をかけてきたのだ。
「女の出入りは きびしく、通してくれないよ。赤子を連れた難儀の旅のようだから助けてやる。おれは船頭だから、秘密の場所から川を渡って武蔵の国に届けるさ。なあに、人助けだね」
そう男に言われ、ついていった。
もちろん、信用なんかしていない。
やはり、安くない金を払い、向こうに着いて歩きだしたとき、男が襲ってきた。
かんたんに思いが遂げられるとばかり、へらへら笑いながら迫る。
その男の髷を、隠し持った小刀を横に払い、切り落とした。
そして、蒼白になった男に刀を突きつけ、裏路から表の街道まで案内させた──というのだ。
「そのとき雪之丞がね」
菊乃は、改まったように語りかける。
「男が背後から襲いかかってこようとしたとき、背中を足で蹴って教えてくれたんだよ。それもそんなことがあったのは、そのときだけじゃなかった。物取りが腰の包を盗もうと後ろから忍び寄ったときや、正面からきた掏(す)りが懐の財布に手を伸ばそうとしたときとか、何度もあったんだよ」
「まだ、一歳だろ。気のせいじゃねえのか」
寅之助はそういいながら、ふっくらした頬で、満足そうに菊乃の背中で居眠りをしている雪之丞を見守った。
菊乃もわが子の自慢話に、うれし気だった。
首をひねり、肩口から雪之丞をのぞきこもうと菊乃は、むの字に口を曲げる。
「あ、背中蹴った。わあ」
二人は、危うく街道の太い杉の古木に衝突するところだった。
会話を交わしているうち、足の向きがずれたのだ。
二人は、目の前のざらっとした杉の幹に手をつき、顔を見合わせた。
「さすが山田青雲斎輔矩様の御子でございます」
うむ、と頷くように寅之助は雪之丞にむかって手を合わせた。
二人と赤子は、木賃宿の物置にねぐらを確保しながら、宇都宮の手前まで来た。
陸奥の国、白河までつうじる奥州街道とはそこで分かれ、日光東照宮へ向かう専用の街道にでる。
その後一日で今市に着き、そこからさらに日光街道と別れ、山深い脇道の会津西街道に入る。
街道は晴れ渡り、心地よい風がふんわりと流れた。
点々と街道を上り下りする参詣者の足が弾む。
その群れに混じり、乞食すれすれの貧乏人となった寅之助と菊乃は、人の多い宿場に近づくと柄杓をかかげ、物貰いを装った。
宿場には、本物の乞食もたむろしている。
乞食姿でのお参りであっても、人々は連中を追い払わない。
乞食のなかには、すでに腰に二本の刀を差していないが、なにもかもあきらめ切った顔つきの、元侍らしき男の姿も見受けられる。
この街道を行き来していれば、人々の喜捨の心得で、なんとか生きていける。
浪人になった侍は、新たなお召し抱えがないかぎり、町人か百姓になるしかないが、決心がつかず、迷っているうち、他人のお恵みで生きていくようになってしまう。
それにひかえ、しゃきっとした乞食姿で生きている老婆、お鈴の姿が寅之助の脳裏に浮かぶ。
お鈴を思いだすと、颯爽(さっそう)とした若き修行の日々が胸を熱くした。
ついでに、長い夜のなまめかしい一時が心を炙(あぶ)るように横切る。
「寅之助様、先日のお鈴さん。もしかしたら、好きだったんではないですか?」
雪之丞を背負って横を歩きながら、菊乃が笑みを浮かべる。
雪之丞は、ぐずることもなく、交互に母親と寅之助の背中のぬくもりを味わっていた。
「ああ、お鈴はいい女だった。剣の腕も確かだった。修行をやめてどこかの殿様に仕え、一緒に暮らそうかとも考えたが、ある日、忽然と姿を消しやがった。それで、二度と姿を見せなかった」
時代は忍びを必要としていた。
もちろん、目的がはっきりした夜間のときの衣装以外、黒づくめなどという任務はありえなかった。
ごく普通の生活者を装い、体力、気力、知力を駆使し、目的の地や国、そして世の中の動きを地味に探る。もちろん乞食にもなる。
そんな時代のお鈴が、しおれた姿で目の前に現れたのだ。
『争わない平和な時代が早くこないかな』といつか溜息をもらしていた。