剣豪じじい 2章
又五郎と呼ばれた太った男が、腰を曲げた寅之助を指さした。
「ばかいうな。このじじいのどこがおっかねえんだ。それから怪しげな浪人ていうのはどこだ」
又五郎が今度は浪人を指さす。
「ばかやろう。こいつのどこが怪しいんだよ。それで、かぶりつきてえくれえいい女っていうのはどこでえ」
「へえ、そこに立ってまさあ」
「ばかやろ」
毛むくじゃらは、目玉が飛び出すほどに怒った。
「でも親分、今はしかめ面してますけど、ちゃんと品定めをすればいい女だってすぐ分かりますぜえ」
「なんだとお? よく見るといい女だあ?」
言われた親分が、すっと近づき菊乃をのぞきこんだ。
腕をのばし、菊乃の顎を手の平でしゃくろうとした。
とたん、影がひるがえった。
寅之助の杖が、親分の頭に飛んだのだ。
「あたたた……」
親分は頭を左右に揺らしながら、白目を剝き、尻もちをついた。
「やろう」
「やりやがったな」
持ったそれぞれの武器をかまえ、子分たち、一斉に腰を落とした。
「それい」
かけ声をあげ、長脇差や天秤棒を振りあげた。
寅之助が、いつの間にか刀を手にしていた。
寅之助のうしろの菊乃も刀を手にしている。
ただし、小刀である。
寅之助と菊乃にはさまれ、困った顔の浪人の腰の刀は、二本とも鞘だけだった。
やくざたちが武器を振り上げたとき、寅之助と菊乃が浪人の刀を素早く引き抜いたのだ。
「小手をやれ……」
寅之助が背後の菊乃につぶやく。
「いやあ」
「いえい」
寅之助の声と、菊乃の声が重なった。
寅之助は大刀、菊乃は小刀だ。
長脇差しや天秤棒や樫の棒の間をかいくぐり、白刃がひらめいた。
頭のてっぺんに結った二つのとんがった髪が、右に左に風を切る。
三本槍岳でも菊乃は小刀を巧みに使い、山賊と戦った。
「あいたたたた……」
「ひゃあー」
いかつい男たちが、持った武器を一斉に地面にこぼした。
「いててててて……」
あっというま、真剣の切っ先が、やくざ者の手首や拳をかすめた。
切られた指がぽとぽと音を立て、地面に落ちた。
男たちは手先から血を滴らせ、痛さに耐え、ばたばた足を踏んだ。
新陰流の極意だ。
全身全霊で斬りかかり、相手の命を奪うのではない。
小手先を利用し、幾つもの傷を負わせ、戦意を削ぐのである。
「きゃっ、きゃっ、きゃっ」
戦闘のさ中、明るい笑い声がこぼれた。
菊乃の背中からだった。
母親が剣を振るい、右に左に躍動している光景をつぶらな瞳で目撃し、はしゃいでいた。
「これ、雪之丞、はしゃぐでない」
赤子に菊乃が声をかけ、背を揺する。
親の語気から気配を察し、雪之丞は声を潜めた。
「あいたたたた……」
「ひゃあー」
やくざたちが、叫び声をあげていた。
我れ先に逃げだした。
あとの地面には、天秤棒と心張棒と一本の刀と数本の樫の棒が転がっていた。『く』の字や『つ』の字に曲がった指も、あちこちに散っていた。
そこらの地面が、血で汚れていた。
遠巻きにようすをうかがっていた野次馬たちが、恐る恐る近づいてきた。
だが、乞食の格好をした奇妙な年の離れた夫婦に、どう話しかけていいか分からず、もじもじしていた。
そのとき、中年の頭の禿げた男が人込みを掻き分け、顔をだした。
「ありがとうございます。わたしはこの宿(しゅく)の名主(みょうしゅ)で木村平兵衛と申します。巣くっているやくざを退治していただき、なんとお礼を申しあげてよろしいやら。よろしかったら、脇本陣のお座敷でお茶などを差し上げたいのですが、いかがでしょうか。ご浪人様もご一緒にどうぞ」
いつのまにか、旅籠の街道に人が溢れていた。
しかもこの宿の責任者である、名主が現れたのだ。
名主はあくまでも民間人。
街道をやくざに荒らされている現実は、管理能力を疑われるので、この地の代官なりに訴えにくかったのだ。
「いや、急ぎの旅だ。隠居の身だが昔取った杵柄、つい癖がでた。街道を血で汚したが、あとのことはお任せいたします。急ぎますので」
「承知いたしました。お引止めはいたしません。どうぞ無事に旅をお続けくださいまし」
名主は、もしかしたら乞食姿の二人はなにかの使命を帯びた幕府のお忍びではないかと一瞬ひらめき、かしこまった。
寅之助は、自分たちが夫婦であるということを印象づけられればよかった。
とにかく用がすんだからには、はやくその場を後にしたかった。
せっかく乞食に変装して旅に出たのだが、見知らぬ敵に立ち回りを見られたのではないかと、寅之助はすばやくあたりを窺った。
目に見える範囲に、それらしき影は見当たらなかった。
「それでは」
寅之助は杖を握り、腰を曲げ、歩きだした。
菊乃が後に従う。
菊乃は、いつ名付けたのか雪之丞とやらの尻を片手でなで、もう一方の手に荷物を抱えて歩きだした。
その後ろを不精髭の浪人がついてきた。
寅之助が振り返り、浪人に声をかけた。
「さっきは刀を貸してくれてありがとう。お礼を言うのを忘れていました」
「いいえ。見事な剣捌きを見せてもらい、すっかり感心しました。拙者は、このまま歩いて日光の権現様にでも参ってみようかと。ひまなものですから」
権現様とは徳川家康を差す。
日光の東照宮に祭られているのだ。
浪人は世間とは、いっさい関係のないようなのんびりしたようすだ。
「あなたは、いつどこでこ浪人になられたのでしょうか?」
寅之助は、無聊(ぶりょう)浪人の生い立ちを聞いてみた。
「三ヶ月まえは、瀬戸内海をのぞむ前田藩の藩士でした。名は花井清十郎と申します。今は日本橋に住んでおります。前田藩の事件、ご存知でしょうか?」
参勤交代制度は、江戸と地方の情報の行き来を活発化させた。
地方で起きた突飛な事件などが、江戸に届くとたちまち町中にひろまる。
するとさらに、全国から人が集まる江戸から、今度は一気に日本中に広まる。
寅之助もその話を耳にした。前田藩の藩主は、酒に狂って部下や妾たちを次々に切り捨てたのである。
幕府が藩主の乱行を正すと、藩主は城を放棄し、行方をくらました。
ほどなく発見されたが、藩はお取り潰しとなり、大勢の家来たちが生活手段を失った。
「お殿様のご乱心、お気の毒です。ところで花井清十郎殿、わたしたちに道連れは不用でございます」
寅之助は、目上の武士に対する配慮で口を効いた。
「ああ、これはこれは気がつきませんでした」
花井清十郎は、三人連れになっている自分にはじめて気づき、足を止めた。
立ち止まった花井清十郎を残し、寅之助は赤ん坊を背負った菊乃を急かした。
「菊乃殿、どうして次郎兵衛の家を抜け出したんですか。しかも赤子まで背負って。菊乃も子供も命をねらわれているんですよ。今回の旅ではその理由をはっきりさせ、またあなたの父親がだれであるのかも探るのです。しかし、菊乃殿が赤子を背負って会津にいけば、『飛んで火に入る夏の虫』。江戸におもどりください」
まだ半日の距離だ。
今からなら、夕暮れまえには家に着く。
「いいえ。帰りません」
菊乃は赤子の尻を軽く上下に揺すり、頭上に束ねた髪を左右に振った。