剣豪じじい 2章
床下に間諜が忍び込んでいたくらいであるから、どこかでだれかに見られている可能性もあった。
今朝、鶯谷の次郎兵衛と菊乃に、行ってくると挨拶をした。
そのまま蔵前から浅草を通り、千住の宿にさしかかっていた。
腰の曲がった年寄りの旅だ。すたすたは歩けない。
二時間ほど歩いたとき、後ろから聞き覚えのある女性の声がした。
「そこの、乞食のおとっつあーん」
あわてて周囲を見渡した。どこにも乞食の姿はない。
あ、おれか、と手にした杖を止め、振り返った。
女の乞食だった。寅之助と同じように髪を頭のてっぺんでまとめ、紐で縛っている。
束ねた髪の先がぴんと立っている。
「菊乃……」
鶯谷の次郎兵衛の屋敷にいるはずである。
汚れた顔に、汚れた着物を着、腰巻をつけている。
今朝、鶯谷に寄って出発の挨拶をしたばかりだ。
どうやら、寅之助の格好を真似たようだ。
しかし、貧しい旅人を装ってはいたが、目が大きく輝き、着物の袖口からのぞく手首や襟元の肌が白い。
そしてなぜか、二十歩ばかり離れた菊乃の背後には、一人、二人、三人と目つきの悪い男たちがついていた。
ばらばらだが列になっており、いちばん後ろには二本差しの浪人らしき男もいる。
そう、男たちは菊乃を見つけ、いい獲物だと心躍らせているのだ。
だが、そこは宿場町の入口である。民家が軒を連ね、人通りも多い。
だから、人気の途絶えるこの先の荒川の橋を越えたあたりで襲う魂胆だ。
腰を曲げ、杖をついて立ち止まる寅之助に、菊乃が追いついた。
形のよい小ぶりの鼻の頭に、汗をかいている。
その背中には、赤子を背負っていた。
「寅之助さん。次郎兵衛さんところ、抜け出してきちゃった。わたしも会津にいきます」
寅之助は菊乃の予想外の行動におどろくが、とにかくなんだあれは、と背後を顎でしゃくった。
「知り合いか?」
「え?」
菊乃が、頭のてっぺんに立てた髪を揺らし、体をひねった。
背中の赤子が首をかしげ、すやすや眠っている。
ついてきた男たち三人が、なんだとばかりに歩をゆるめる。
落ち着きのない六つの目玉を、きょろきょろさせながら菊乃に近づく。
先頭の男が立ちどまった。丸顔で太っている。
「おい。なんだ、てめえは?」
菊乃のまえにいる寅之助を、顎でしゃくった。
おれの獲物にちょっかいだすな、と文句をつけている風だった。
「おれはこの女の亭主だ。この女はおれの女房だ」
寅之助は腰を曲げたまま杖をつき、顔をあげた。
「おっと。なんだってえ?」
丸顔は杖をつく老人を、もう一度見なおした。
そして、笑いだした。
「じゃあ、この女が背負ってるやや子は、お前の子供だっていうのかよ」
「そうだ。おれの子だ」
大声で答えた。
もしかしたら、だれかが物陰でようすを窺っているかも知れない。
街道のやくざらしきこの男たちも、だれかの差し金かも知れない。
さらに、三人の後についていたいちばん後ろの不機嫌そうな髭面の浪人が、背後からのぞく。
「この女、この乞食じじいの女房だとよ。そいで背中の子はじじいの子だとよ」
「わーはははは」
三人がの笑い声が重なった。
通行人が足を止める。
左右の木賃宿の二階からも、客が顔をだす。
「そうかい、そういうことかい」
太った男が、仲間に目配せをする。
「この女、見すぼらしい恰好して顔に竈の炭なんか塗ってるけど」
「よく見りゃ、上玉のいい女じゃねえか」
この時点で寅之助は、やはり連中が宿場にたむろすただのやくざ者だと判断した。
やくざ者たちは獲物の女をたぶらかし、弄ぶ。
最後は岡場所に売り飛ばす。
気になったのは、男たちの背後から顔をのぞかせている不精髭の浪人だ。
浪人といえども侍であるから、二本差しだ。
まだ若い。二十代だろう。
貧乏生活に疲れ果てたのか、無表情だ。
食うに困り、やくざの用心棒になったのか。
だが、用心棒にしては少しも強そうに見えない。
「若奥さんよ、ほんとうにこんなじじいと寝てんのか?」
「事情があんなら、言ってみな」
「助けてやるぜ」
三人がにやにや笑いかける。
完全に寅之助をなめている。
「関係ないでしょう、あんたたちと」
菊乃の凛とした一言に、三人はそろって『お』と身を反らした。
「おい、おまえらこそ何者だ」
寅之助が、杖をついた姿勢で言い返した。
「じじいは黙ってろ。女に用があんだ」
太った丸顔が、つかつかと歩み寄った。
腕をのばし、菊乃の肩に手をかけようとした。
乞食のじじが、ひょいと腰を伸ばした。
杖が空を切った。
だが、杖は三人の不敵な面構えのやくざの頭を飛びこえた。
ごつーん、という音が杖の軸を伝わり、心地よく響いた。
杖の先は、後ろからのぞく浪人の脳天を一撃していた。
どすん、と重たげな音。
浪人が地面にひっくり返った。
三人は振り返り、そして顔を見合わせた。
三人は、不思議そうにまばたいた。
こいつ、なんだかすげえぜと、老人を見なおす。
老人は、三人をじっと睨む。
気味悪そうに、三人が、上から下へと老人を見守る。
悪者は、身の危機に対する感がするどい。
「おい、いこうぜ」
驚愕の眼(まなこ)を見開き、丸顔が他の二人をうながす。
「ちょっとまて。そいつ、どうする」
寅之助は、倒れた浪人を顎でしゃくった。
「知らねえです。こんな男。いつのまにかついてきていやがったんです」
太った男は顔に似合わぬ敬語で答え、駆け足で逃げていった。
赤子を背負った菊乃が、倒れた男に歩み寄る。
大の字で、仰向けにひっくり返っる頬のこけた無精髭の顔が物悲しそうだ。
若そうだが、年寄りにも見える。
菊乃は浪人の頭の方に回り、肩から両腋の下に腕を差しこむ。
「えい」
気合とともに活を入れると、浪人がふっと息づき、目覚める。
「おい、お前はやくざ者の仲間か」
寅之助が訊く。
青白い顔であたりを見回したが、すぐに自分を思い返したようだ。
「いいえ。ちがいます」
「じゃあ、なんで一緒になって後をつけていた」
「ひまだったから、やくざのみなさんが何しているのかと」
意外な言葉を口にした。
寅之助も菊乃も、なんだこいつは、とばかり若い浪人を見なおした。
「あんなふうに一緒になって歩いていれば、仲間と思われるだろ。お前がいちばん危険な相手のようだったから、初めの一撃を食らわしたまでだ」
「はあ?」
打たれた頭のてっぺんに手を当て、目の前のみすぼらしい老人と乞食の若い母親を、不思議そうに観察する。
そのとき、どたどたと足音がした。
「いたぞう。こいつだ」
さっきの太った丸顔の男だった。
仲間を十人ほどに増やしている。
街道にたむろすごろつきたちだ。
筋骨たくましい上半身裸の男や、全身毛だらけで褌一丁の男。
着物の肩肌を脱いで、抜き身の長脇差し(どす)を持った者。
樫の棒や天秤棒を握りしめ、鉢巻をした男たちが怒気をはらんで二人を取り囲んだ。
しかしそこには、乞食のようにぼろを着、杖をついて腰の曲がった老人と、同じような乞食の格好で、赤子を背負った女と浪人らしき青白い頬の三人がいるだけだった。
「又五郎、相手はどこでえ」
毛だらけで褌一丁の四角い顔の男が、ぐるっと見渡す。
「そこのくそじじいだ」