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剣豪じじい  2章

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もしかしたら、二人ともちらり目にしたさっきの絵にすっかり心を奪われてしまっているのか。
右隣に座った一人息子の平助が、ご飯を下にこぼしても、嫁の夏江はいつものように小言も述べない。
さっと横に手をのばし、自分の口に入れてしまう。

出涸らしのお茶を素早くすすり、食事が終わった。
重太郎が立ち上がると、夏江も自分の膳をもって足音をたて、大股で洗い場にむかった。
「お女中はいないのですか?」
洗い物を手伝おうと、膳をもって腰をあげた菊乃が夏江に聞く。
「この組屋敷には、女中を雇える者はおりません。それよりも、日が暮れる前に寝間の支度をしてくださいませ」

夏江は、菊乃がちょっとばかり育ちの良いどこかの娘くらいにしか思っていない。
みんながせわしく動き、寝間が整った。
寅之助はいつも四歳の孫の平助と一緒に寝ていたが、今夜平助は一人、台所だ。
平助に代わり、いつもの六畳の部屋に赤ん坊を挟んで菊乃が寝ている。

長旅で疲れているのだろう。
寝床が整うとすぐに横になり、寝息をたてだした。
困ったことに寅之助の頭には、まだ枕絵の残像が残っていた。
すやすや眠っている赤ん坊の向こうには、白い肌の女の肉体が横たわっている。
閉じた目の中で、枕絵の艶めかしい女性の恍惚の表情が浮かび上がる。

夫の青雲斎は亡くなってしまったので、菊乃は未亡人だ。
もしものことがあっても、不義密通の罪には当たらない。
寅之助は久し振りにどきどきした。
そんな寅之助の気配をさっしてなのか、菊乃が、溜息をつきながら寝返りをうつ。
誘っているのだろうか、とあらぬ憶測をする。

『おい、こら』
突如、耳の奥から声が聞こえた。
『なにを考えている。お前は剣豪に返り咲いたんだぞ。熊と戦い、ほんの一瞬だったが、伊藤一刀斎とも共に賊とも戦った。三本槍岳の修行はなんだったのだ。馬鹿者』
頭の中でつぶやくや、張り詰めた山の真冬の空気が背筋に走った。
研ぎ澄まされ、凛(りん)とした覇気(はきi)がからだを貫き、我に返った。

が、今度は耳が艶めかしいうめき声を捕らえた。
奥の六畳間の方からだ。
かすかな衣類のこすれる音。
二人は、やはりあの絵に魂を奪われてしまったようだ。

傑作ですぜ、と自慢気に笑ったカブキ者の立髪の顏が浮かんだ。
がんばれ、おれは重太郎しか作れなかったが、血筋に遠慮するな。
最低あと二人は子供を作れ、と密かにはげます。
いや、違う……。
寅之助の右手がぐいと伸びた。

菊乃とは反対側に添い寝しているのは、一刀斎の名刀だ。
青雲斎の了承を得、形見に譲り受けたものだ。
人の気配は床下だった。
ただごとではない。

息を殺し、寅之助は掻巻(かいまき)から抜け出した。
刀を握り、爪先で立ち上がった。
同時に床下の気配が、すっと移動した。
四つ足……そう、這っている。ただし人だ。
廊下からの出口はただ一か所。脇の通路だ。

床下への、小さな嵌め込み式出入り口が通路に面している。
かすかな月明りが、閉めた雨戸の隙間から漏れている。
寅之助はそっと襖を開け、玄関に向かった。
表に出ると同時に、影が目の前をよぎった。

寅之助も開け放たれた門から、裸足のまま外に飛びだした。
賊は黒い衣服をまとっている。
組屋敷の出入口までは五十メートル。
路地が月明かりに照らされている。

路地の辻には小屋があり、辻番がいる。
「辻番、その男を捕まえろ」
月影の町に声が響く。
辻番が飛びだしてきた。

辻番が両手を広げた。
賊は年寄りの辻番に、体当たりを食らわした。
辻番がはじかれ、尻もちをついた。
黒覆面に黒装束、下半身は膝下まである長足袋の裁着袴(たっつけばかま)だ。
明らかに間者(かんじゃ)である。腰に小刀を差している。

寅之助が迫る。
いくら修行を積んだ剣豪とはいえ、七十一歳の足は速くない。
寅之助が辻小屋の前にたどり着いたとき、跳び起きた尻もちの間者が両眼を滾(たぎ)らせ、振り向く。
同時に剣が閃めいた。

寅之助はからだを反らし、攻撃をかわす。
賊は小刀だ。低く身構えた寅之助も応じる。
間者が跳び跳ね、後退する。かすかな手応えを、握った柄で感じる。
間者は背をむけ、また走りだした。

寅之助の切っ先が、間者の腕と腿をかすめた。
月明かりの地面に、点々と赤い血が滴る。
後を追う寅之助。
間者の足の運びが少しづつ遅くなる。

手負いの患者の背中が、寅之助の目の前に迫る。
だが、息が切れ、それ以上追えない。
足が動かないのだ。
路地を抜けると、そこは神田川だ。
いつもの茶店の川岸である。人気のないその時間、岸の長椅子は片付けられ、店の戸は閉まっている。

間者はそのまま駆けていく。
そして両手を広げ、跳ねた。
月に照らされ、宙に浮く影。
ざっぷーんと水音。

川面の半分は、向こう岸の月影で暗い。
川の水量は人の高さほどか。
緩やかに大川(隅田川)に向かい、流れている。
寅之助は覗き込んだ。
どこにいったのか。水面が黒く光っている。

逃してなるか、とすぐ先の川下の橋に向かった。
川岸を通行する二、三の人影が、白刃の刀を持った寅之助にぎょっとする。
寅之助は抜き身の刀を鞘に納め、橋の中央に立った。
血相を変えた寝間着姿の侍に、わずかな通行人はあわてて逃げる。

寅之助は欄干から首をのばし、川面を睨んだ。
だが、どこに消えたのか。
息を凝らし、川面を見つめる。
しんとして水音さえしない。
素早く両岸に目を走らすが、気配は完全に消えた。

静かだった。
と、川岸の路地の入口に人影が現れた。
左右を見渡し、寅之助の姿を見つけるや速足でやってきた。
月明かりの中で、頬が白く光った。
左右の肩に白襷(たすき)が見えた。
黒髪をおすべらかしに長く束ね、手には脇差を抱えている。

「菊乃……」
油断のない足取りで、橋を渡ってきた。
「間者はいずこに」
涼し気な目で川をのぞくその背中に、赤子が眠っていた。
肩にかかった襷は、赤子を背負う帯だった。
涎掛(よだれか)けをつけ、母親の背中で安心したように眠る赤子。

「多少の傷を負っているはずだが、川に飛び込んだきり、姿を消しやがった」
また、川面に目を凝らす。
「会津の間者か」
菊乃がぽつりと口にする。
「会津からきた間者?」
そんな馬鹿な、と寅之助に疑問が浮かぶ。

「あなたは今日、組屋敷に着いたばかりだ。敵をあざむくため、とっさの判断で街道を逃げてきた。江戸の寅之助のところに行くなどと、だれにも話していないだろう」
「はい。話す暇もありませんでした」

「それに、会津にいたとき、三本槍岳にいた修行者の私の名前や住んでいる江戸の組屋敷について、だれかに話したのだろうか」
菊乃は川面から目をそらし、首を傾げた。
そして、ぽつりと口にする。
「何かの話題のついでに、母やおつきの女中に喋っているかもしれません」

菊乃の背中の赤ん坊が、目を覚ました。
足を蹴り、体をのけぞらせた。
が、泣き声はあげず、顔を夜空に向けた。
大きな瞳で輝く星を見上げる。
どんな星の元に生まれてきたのかを、自ら確かめているかのようであった。


寅之助と菊乃は茶屋にいた。
その日は川岸の店の長椅子ではなく、小上がりの座敷に席をとった。
作品名:剣豪じじい  2章 作家名:いつか京