剣豪じじい 2章
なにやら、遠く会津藩の問題までからんでいるようなのだ。
「分かった。とにかくこの子はおれが生ませた子だとまわりの者に信じさせよう」
自分の子だと思わせ、とりあえずは娘に安泰をもたらせなければならないようだ。
茶屋のおかみさんが、気を利かせ、代わりの茶を運んできた。
手をのばし、傍らの長椅子ですやすや眠る子供の額を撫でながら、寅之助はさっそく宣言した。
「どうだい、かわいいだろう。おれの子だよ」
「おや、まあまあまあ……よろしゅうございますね。こちらのお方が奥様でいらっしゃいますか」
おどろいたのかおどろかなかったのか、中年のおかみさんは茶を運んできた丸いお盆で口元を隠し、寅之助と菊乃を見比べた。
江戸では、年寄りがお妾をもらい、子供を作るのは特異な話ではない。
しかし、隠居した年寄の貧乏御家人が後妻を貰う話は珍しい。
最後に寅之助は、大事な件を菊乃に聞き正した。
「菊乃殿、あなたのお父上はどなたになりましょうか?」
「存知ません。母上に聞いても、知らないというのです」
菊乃の話は以下の通りだった。
母親は育ての母であり、奥座敷でお女中をしていたとき女中頭に呼びつけられ、赤子の菊乃を育てろと命じられた。
与えられた家屋敷は、会津城下の武家屋敷と町屋の境にあった。
保科正之の前の藩主のお妾が暮らしていた屋敷だった。
菊乃は普通の娘のように自由に育てられ、大きくなった。
十歳になったとき、剣道をはじめたが、成長して腕が上がると、屋敷の庭の稽古では満足できなくなった。
そこで道場の稽古(けいこ)を望んだが、どうせなら江戸に行ってみたいと母親に願い出たが許されず、家出をしたのである。
しかし、すぐに二人の追手がついてきた。
追手はれっきとした会津の藩士であり、その二人の供と一緒ならば江戸にあがってもよいと母親に許された。
が、会津の山道の西街道を急ぐあまり、脇道にそれ、道に迷い、山賊に襲われたのである。
そのとき、助けてもらった青雲斎の剣捌きにうっとりしてしまったのだ。
もちろんそのときは、青雲斎という修行者が会津藩主の保科正之と深い縁のある人物であることは知るよしもない。
寅之助は、菊乃から話を聞いたが、父親も母親も分からない。それなりの家屋敷まで与えられているところからしても、ある程度地位のある者に間違いなかった。
しかし、城下で密かに育ててられていることが理解できなかった。
「おれは、剣術修行の娘に子を産ませた七十一のじじいになるってか」
改めてそう口にしてみると、面白いような恥ずかしいような、または妙に気分が浮き立つ心地だった。
しかも子供が産める証明のため、助平心のあるじじいを演じなければならなくなったのである。
さあ、どうする……。
赤子が目を覚ました。
足を突っ張り、くくっと泣きかけた。
そうだ、と寅之助は、さらに聞いておかねばならない一件を思いだした。
「菊乃殿、国元で賊に襲われ、覆面の源兵衛とやらに足を縛られたとき、一緒にいたはずの女中はいまどこにいますか?」
「お米(よね)は賊に捕まりましたが、すぐに解放され、今は家にいるでしょう。帰ったとき、当然母上にいきさつを告げています」
「それであなたのお母さんは、どうしするだろうか?」
「当然、賊から逃げた私からの連絡を待っているでしょう」
「本当の親には知らせないのか?」
「親からと思われる使いの者が時々見えますが、その者も用件を果たすだけで、だれに頼まれているのか知らないのです」
「育てのお母さんは、菊乃の赤子の父親が青雲斎だということは知っているんだな?」
「もちろんです。でも、青雲斎は嘘で本当は江戸の御家人の松下寅之助殿だと手紙に書きます」
菊乃はむつがりだした赤子を抱きおこした。
「おむつの取り替え時らしいな。組屋敷に戻ろう」
席を立ち、寅之助は組屋敷に向かった。
赤子を抱えた菊乃を後ろに従えて歩いていると、いい年のじじいだったが、若き日の遠い昔、そんな場面があったことを思いだし、心がむず痒くなった。
もう、倅の重太郎がお城のお勤めから帰ってきているだろう、なんて言うか。
3
「ええ?」
寅之助の息子の重太郎は絶句した。
挨拶をする菊乃と赤子を、息を止めて見守る。
その目に、ちらっと羨望の色がよぎる。
自分には、平太郎一人しか子供がいない。
だが父親は若くてきれいな娘を相手に、簡単に男の子を産ませた。
二人に注がれていた重太郎の視線が、天井をあおいだ。
そして腕を組んだ。ときどき見せる、ふとした眼光である。
「お父上、めでたい時になんですが……」
溜息をつき、途惑った口調で父親の寅之助の耳元に口を寄せる。
「二人も増えたら……どのように暮らしたらよいのかと……はっきりいうと、今の扶持では……ううう」
うめき声を漏らすしかなかった。
日々、ぎりぎりの生活だった。
羨望よりもそっちの心配のほうが先だ。
「心配ねえよ」
背後の夏江と菊乃に聞こえぬよう、寅之助は声を落とす。
「菊乃の故郷が山国ゆえ、いくばくかの熊の胆(きも)を持参しておる。ここ五、六年は心配ない」
「ほう」
重太郎の目が虚空を泳いだ。
実は寅之助は、自分が持っている熊の胆(い)の価値が高すぎ、どう使ってよいか迷っていた。
それに、人助けの剣豪じじいの御礼も馬鹿にならなかった。
家には内緒の行為なので、金の使い道がなかったのだ。
熊の胆も人助けの謝礼も菊乃が持参したことにすれば、親子は大事にされるし、寅之助も動きやすくなる。
「熊の胆とな……」
重太郎は、うん、うん、とうなずく。
熊の胆は万病の医薬であり、金(きん)と同じ価値だった。
「とにかく、急ぎの旅で汚れてもいるだろうし、湯屋に行って着替えてもらいましょう」
金銭の心配のなくなった重太郎は、ほっとしたように背筋を伸ばした。
まだ宵の口だ。外は明るい。
赤子を抱えた菊乃が夏江に連れられ、隣接する町屋の風呂屋にむかった。
その間、寅之助は、神田川を渡り、反対側の岸辺を十五分ほど大川(隅田川)沿いに歩いた。
女性に興味がなくなってから、近くに色町が栄えていると聞いても、見学に出向くこともなかった。
川岸に人影が重なり、賑わっていた。
武家地の屋敷をほんの少し離れた、町屋の別天地だった。
表通りに格子(こうし)窓がならんでいる。
男たちが格子に額をつけ、中をのぞいている。
繁華街特有の、勝気のあふれた不道徳で楽しそうな賑わいだ。
寅之助は、店の左右にいる派手な着物の男たちに気づいた。
「旦那さん。先日はお世話になりました」
背後から声をかけられた。
初めての訪問なのになんだろうと振り返った。
派手な色柄の丹前(たんぜん)を着た若い男だった。
髷ではなく、髪を肩に垂らしている。
神田川の茶屋で懲らしめた、カブキ者の親玉だった。
なんだおまえは、とばかり寅之助は眉根を寄せた。
「ここでも派手な成りで騒がし気な空気をまき散らし、そこらの店に嫌がらせをしている
のか」
「とんでもありません。ここではそんなことはしていません。仕事です」
その目に反抗的な色はなかった。
見事な変身ぶりである。
「ほう、どんな仕事だ?」
寅之助はすぐに剣術じじいに戻った。