剣豪じじい 2章
傍らの長椅子の上には、孫の平助が赤子のときに使った綿入れにくるまれ、寅之助の子が眠っている。青雲斎に不意打ちを食らわそうと、土壁の隙間から目撃したときにできた子なのか。
「その子は青雲斎殿のお子でしょうか?」
寅之助は遠慮がちに問いかけた。
「はい。青雲斎様の御子です。寅之助様の子ではありません」
菊乃もまっていたかのように、はっきり答えた。
「でも先ほどは家族の前で、おれのお子だと」
「青雲斎の子ではまずいんです。失礼ながら家族の方に、まずそう信じてもらいたかったんです。迷惑かけて申し訳ございません」
覚悟をしていたように、菊乃は深く頭をさげた。
「青雲斎の子ではまずい? どういうことだ?」
なにがあったのかと身構えた。
「殺されるかも知れません」
菊乃は、あわてることもなく言葉を継ぐ。
「殺される?」
寅之助はおもわず上半身をのりだした。
菊乃は心得たように語りだす。
「山田青雲斎様は、会津藩の出羽山形の領地から保科家に仕え、家老の職も勤めました。そして藩主になにか事があれば、藩主に代わって陰で勤めを果たさなければならない立場の人物でした。しかし、青雲斎様は、藩主の保科正之が立派にお役目を果たすようになったとき、若いころから望んでいた剣の道の方を望んだのです。
現在、保科様が江戸城内で幼少の四代将軍家綱様のおそばにお仕え申しておるのも、亡くなられた三代将軍家光様の腹違いの弟の立場とはいえ、青雲斎様のお知恵やお力があってのことでございます。しかし、このように安泰の地位にある会津藩といえども、保科正之様に敵意や反感を抱く者がおります。その者たちは、まず陰の実力者である青雲斎様をなんとかしなければ、と機会をうかがっておりました。ところが青雲斎様が、にわかに剣の修行で山に籠ったのです。
その歳での山籠りは自然死を待つようなものです。待っていればよかったのです。そして望み通り、青雲斎様が亡くなったという話を耳にしたのです。青雲斎様は独身をとおされましたので跡継ぎもなく、また孤高をつらぬきましたので主だった従者も持たず、おひとりの身でございます。ところがしばらくするとその者たちは、青雲斎様の子を宿している娘がいるという情報を得たのです」
いきなり将軍や藩主の話がでてきた。
訳ありの娘とは承知していたが、そこまで出てくるとは思っていなかった。
え? っと、身をのけ反らせ、驚くところだったが堪える。
寅之助は、落ち着いてきりだした。
「そのような事情がおありとは、存じあげませんでした。では、あらためお伺いいたしますが、山賊に襲われて三老人に助けられたあなたが、青雲斎にお仕えしようと再び山に戻りたいと申したとき、母親はなんと答えたのでしょうか? さらに、話の中にでてくる連中とやらは、あなたが青雲斎の子を身籠っていることをどうして知ったのでしょうか? また、藩主保科正之を恨む浪人一派のいきさつを、どのようにあなたは知ったのでしょう?」
いくつかの疑問だった。
はい、とうなずき菊乃が応じる。
「山から帰った私が、青雲斎のもとで修業をしたいと正式に母上に申しあげると、黙って聞いていた母上は、十日ほどたった後、修行とともに青雲斎へご奉仕をするならば、と認めてくれたのです。ご奉仕とは全面的に仕えるという意味で、女中であり、修行の剣士であり、妻でもあったのです。でも名目上は修行ですから、身一つで山に籠りました。うれしかったです」
菊乃は胸の子を抱きしめ、微笑む。
「それで、先ほども触れましたが、この子と私の命が狙われていると分かったのは、会津城下で私を襲った三、四人の浪人の一人が、うっかり漏らしたからです。御用があって赤子とともに会津城下の屋敷をでて、お堀のきわの人気のない林に近づいたとき、女中とともに捕まり、私は籠に押し込められました。そのとき、籠の中で赤ん坊を抱えた私の両足を紐で縛りながら、頭巾を被った男がしきりにくりかえしたのです」
『その子は青雲斎の子だそうだな。おまえも子も生かしてはおけぬ』
覆面の下から、眼光でするどく言い放ちました。
私も剣の道を心得た者です。ひるまず言い返しました。
『生かしておけぬとは何故(まにゆえ)であるのか?』
強い口調の反撃に、ちょっと途惑った頭巾の男が、じっと見返し、かすかに目で笑いました。
『そのうち分かるさ』
『殺されたら分からないでしょう』
『それもそうだな』
男の目が、慌てたようにまばたきました。
『おれたちはな……』
『おい源兵衛、余計な話はするな』
外から声がかかりました。
すかざす私は声を落とし、源兵衛とやらに耳打ちしました。
『源兵衛さん。さっきその子は青雲斎の子かと聞かれましたが、答えは『違います』です。この子は、戸隠の山の修行で出会った、松下寅之助という御家人の子です──思いついて言ってみました。源兵衛の反応を見たかったのです』
『なんだと?』
「覆面の源兵衛が、前かがみに私をのぞきこみました」
『おまえのところの女中と、言うことが違うじゃないか。ま、いいだろう。どうせ一緒くたに皆殺しだ。覚悟しておけ』
するとそこに、大勢の足音がしたのです。
夕方になるとその林を仕事場にし、出店の商売をしていた人たちです。
『こら、ここは俺たちの仕事の場だ。なにをしてる』
彼らは、お上からその場のお墨付きをもらっているのです。
木刀を手に覆面の男たちに襲いかかりました。
その隙に私は足の紐をほどき、逃げだしました。
私とこの子の身の危険を、はっきり感じました。
逃げるのなら、会津の城下町ではなく、赤子を抱いて一気に江戸まで行ってやろうと、考えました。
買い物があったので、懐には多少の金子が納まっていました。
無茶な行為でしたが、だれもそんな真似はしないであろうと思うので、裏をかいてやろう、と必死でした。
寅之助は、もし江戸に来るようなときは訪ねてくれるように、と菊乃に江戸の住居の場所を告おげていた。
ただし、本当にくるとは思っていなかった。
よくきてくれた、災難だったねえ、と慰めの言葉を口にしたかったが、心境は違うところにあった。
「おれがその子の父親だと言っても、だれも信じねえだろうな」
寅之助は江戸弁にもどった。
「あなたの家のお嫁さんは、信じたようです。しっかりした方で、安心しました」
「嫁はともかく、倅の重太郎は信じないな。なにしろおれは、おれの女房が亡くなってこのかた、色気の『い』の字も見せない無害なじじいで通っているからな。今度のこの件が噂になれば、おれの信用はがた落ちだ」
はは、と力のない笑いだった。
男として自慢してもいいのか悪いのか、情けない話だった。
「ですから、女子(おなご)に興味のあるふりをして、間違いなく寅之助様の子であろうと世間の皆様に思わせ、私を助けて下さい」
瞳をうるませ、訴えた。
おい、ちょっとまてよ、と一言いいたくなった。
だが、脇ですやすやと眠る赤子の顏と母親のうるんだ瞳に、あがないきれない力を感じた。
それに、『刀は人のためにある』という伊藤一刀斎の言葉が、頭をかすめた。
いちおう、剣豪になったつもりだから、助けない訳にはいかなかった。