剣豪じじい 2章
剣豪じじい 2章
1
松下寅之助は、今日も家をぬけだし神田川のほとりにきた。
鬚(ひげ)を剃り、洗いざらしの着流し姿だ。腰には大小を差している。
贅肉のない細身の体。額も広く髪も薄くなったが、まだ完全に禿げてはいない。
胸を反らして顎をひき、目つきもちょっと鋭くなった。
三代将軍家光が四十七歳で亡くなり、幼少の家綱の時代になった。
このとき、十一歳の将軍の補佐をしたのが家光の腹違いの弟、会津藩藩主である保科正之(ほしなまさゆき)だった。
山での修業の間に、浪人たちを集めた由比正雪(ゆいしょうせつ)の反乱計画もあった。
その騒ぎも納まり、江戸の空は穏やかに晴れわたった。
戦国時代は、有名な武将たちだけが争ったのではなかった。
時としては地域同士、村と村でさえ争った。
生活に困窮し、生きるため、他の村を襲ったのである。
戦国時代を通じ、全国的に起こった異常な現象だった。
食料や財産の略奪のほかに、人狩りもあった。
奴隷として使役させるため、または商品として売るためである。
売られた多くの人々は、最終的にはキリストの宣教師の仲間であるスペインやポルトガルの白人商人の手に渡り、外国に転売された。
またこれらの人狩りとは別に、戦いに明け暮れた戦国時代の支配者は、鉄砲の火薬を手に入れるため、若い日本人の娘三十人と火薬一樽という交換条件で白人商人と取引をおこなった。
その結果、約五十万人にのぼる若い日本人の女性が、東南アジアやヨーロッパに売られた。
戦国時代は、大量の日本人が海外に売られた時代でもあった。
これらの悲惨な状況を一変させたのが徳川家康だった。
家康は天下を統一するや、秀吉の意向を受け継ぎ、キリスト教を禁じた。
全国に法を巡らせ、日本人に道徳心を敷衍(ふえん)させた。
特に武士の心得として、武士や剣豪たちが培ってきた人殺しの力を民の幸せのための力に置き換えさせた。
武士は平和を維持するため、そしていつでも戦えるよう鍛錬を怠ってはならない、と精神の重要さを説いた。
『刀は人のために使うものだ』
寅之助は、はっきり一刀斎の極意を耳にした。
対戦相手を何人倒したかが、評価の時代は去った。
しかし、強い侍、負けない剣術遣いは憧れであり、人々は称賛を惜しまなかった。
寅之助は熊を相手に修業に耐え、からだも昔のようによみがえった。
柳の木の下の縁台で、三年近くの思いを巡らし、茶をすすっていると、しだれ柳を潜り、嫁の夏江が姿を見せた。
「お父上、お客様がお見えです」
腰に木刀を差した孫の平助を連れている。
「お茶のお師匠さんの、長谷川次郎兵衛様ではありません」
先回りしてそう伝える夏江の口調が、妙に重苦しい。
「次郎兵衛ではない客だと?」
またなにかの頼み事かと考えた。
しかし、ふつうの人たちは寅之助の家を知らない。
また自分の家の者も、剣豪じじいとして徘徊している寅之助の実態を知らない。
「お女中でございます。なんでも、剣が縁で知り合ったそうでございますが?」
「剣が縁で知り合った女子(おなご)だと?」
寅之助が顔を曇らせる。女性とは縁がなかったし、剣での色恋沙汰などは考えられなかった。
「とてもお綺麗な方です」
そう言う夏江の目が、きょろっと動く。
「おじいちゃん、その人、あかちゃんだいてたよ」
平助が口をだした。
「赤子?」
男が女をつくって逃げたという相談か。
多額の借金を残していったとか、あるいは女が貯め込んだ金を持ち逃げしたとか。
「生まれたての男の子です。どうしてもお会いしたいと。家のほうでお待ちいただいております」
夏江のようすが、さっきから変だ。
縁台に腰を下した寅之助をじろりと睨む。
「会ってみよう」
妙な感覚が寅之助のからだを圧迫する。
剣が縁で知り合い、おれの家を知っている……素早く頭をめぐらす。
だが心あたりはない。
路地を抜け、弓引町の組屋敷(くみやしき)の我が家にもどると、上がり框(かまち)に一人の女性が座っていた。
旅姿で、抱いている赤子に乳を与えていた。
首をひねり、美人特有の大きな透き通った目で、玄関に入ってきた寅之助を見あげた。
「松下寅之助様」
「あなたは……」
会津磐梯山を望む三本槍岳の修行場で出会った娘ではないか。
家が会津の郷くらいのところまでは知っていたが、本人がそれ以上を語らなかった。
明らかに自分より身分が上の武家の娘と見たので、寅之助も気遣い、穿鑿(せんさく)しなかった。
しかし着物の裾は泥で汚れ、埃だらけである。
荷物も風呂敷一つきりだ。
しかも、赤子を抱いている。
よほどのことがあったのだろう。
慌ててやってきたようすである。
家光の時代になってから、参勤交代もあり、要所に宿場が設けられ、だれもが街道を安全に行き来できた。もちろんそれなりの危険はあるが、女の一人旅も日常である。
「菊乃です。おひさしぶりでございます」
菊乃が、からだをひねって頭を下げた。
無理な姿勢になったため、胸に抱えた乳飲み児の口からぷるんと乳首がこぼれた。
菊乃の体から、若い母親の匂いがあふれる。
「その子は……」
寅之助は訊こうとした。
菊乃が涙ぐむようにつぶやいた。
「あなたのお子でございます」
え?っと不意をつかれた寅之助は、ふらっと一歩後退し、背後の夏江にぶつかった。
夏江は、寅之助を睨みつけていた。
さっきからの視線はそれだったのだ。
「おい、なんだ……なにが、どうなってんだ」
さすがにあわてた。
夏江がぼそりとつぶやく。
「お父上、お元気でなによりです。山で、本当に剣の修業をなさっておられたのですかあ?」
からだを引き締め、隙のない物腰で山から戻ったが、日常生活に熱心な倅の嫁、夏江にはあまり関心がなかった。
日々ぎりぎりの生活は、貧乏御家人に嫁いできた同じ貧乏御家人の娘、夏江のやりくりにかかっていた。
「もちろんです。寅之助様はだれもが遂げられなかった山の修行を無事に終えられ、下山されたのでございます」
口をつぐむ寅之助に代わり、菊乃が夏江の問いに応える。
賢そうな娘さんだった。
だが、いきなり訪ねてきてなぜそんなとんでもない大嘘をつくのか。
どういうことなのか。
寅之助は頭を巡らせた。
すると、菊乃が片目をぱちっと瞬かせた。
訳がある……寅之助は即座に理解した。
「ま、話は……あとでゆっくり聞こう」
夏江に気付かれぬよう、うなづいた。
2
寅之助は菊乃を連れ、また茶屋にもどった。
午後遅く、川岸の縁台の席は三つ先の席に二人の客がいるきりだ。
菊乃は美味しそうに茶をすすり、茶菓子を口にした。
人助けをするようになってから、寅之助には多少の礼金が入るようになった。
もちろん剣豪じじいの人助けは、金銭目当てではない。
だが、生活にゆとりのありそうな相手からは、少しだけ礼金を貰った。
それに、山から持ち帰った熊肝(たんのう)があった。
日本橋の薬屋に見分(みわけ)をしてもらうと、一頭あたりの肝がなんと五両になった。
二十頭であるから全部で百両なる。
熊の胆(い)は、消化器系全般の万能薬として珍重されているのだ。
1
松下寅之助は、今日も家をぬけだし神田川のほとりにきた。
鬚(ひげ)を剃り、洗いざらしの着流し姿だ。腰には大小を差している。
贅肉のない細身の体。額も広く髪も薄くなったが、まだ完全に禿げてはいない。
胸を反らして顎をひき、目つきもちょっと鋭くなった。
三代将軍家光が四十七歳で亡くなり、幼少の家綱の時代になった。
このとき、十一歳の将軍の補佐をしたのが家光の腹違いの弟、会津藩藩主である保科正之(ほしなまさゆき)だった。
山での修業の間に、浪人たちを集めた由比正雪(ゆいしょうせつ)の反乱計画もあった。
その騒ぎも納まり、江戸の空は穏やかに晴れわたった。
戦国時代は、有名な武将たちだけが争ったのではなかった。
時としては地域同士、村と村でさえ争った。
生活に困窮し、生きるため、他の村を襲ったのである。
戦国時代を通じ、全国的に起こった異常な現象だった。
食料や財産の略奪のほかに、人狩りもあった。
奴隷として使役させるため、または商品として売るためである。
売られた多くの人々は、最終的にはキリストの宣教師の仲間であるスペインやポルトガルの白人商人の手に渡り、外国に転売された。
またこれらの人狩りとは別に、戦いに明け暮れた戦国時代の支配者は、鉄砲の火薬を手に入れるため、若い日本人の娘三十人と火薬一樽という交換条件で白人商人と取引をおこなった。
その結果、約五十万人にのぼる若い日本人の女性が、東南アジアやヨーロッパに売られた。
戦国時代は、大量の日本人が海外に売られた時代でもあった。
これらの悲惨な状況を一変させたのが徳川家康だった。
家康は天下を統一するや、秀吉の意向を受け継ぎ、キリスト教を禁じた。
全国に法を巡らせ、日本人に道徳心を敷衍(ふえん)させた。
特に武士の心得として、武士や剣豪たちが培ってきた人殺しの力を民の幸せのための力に置き換えさせた。
武士は平和を維持するため、そしていつでも戦えるよう鍛錬を怠ってはならない、と精神の重要さを説いた。
『刀は人のために使うものだ』
寅之助は、はっきり一刀斎の極意を耳にした。
対戦相手を何人倒したかが、評価の時代は去った。
しかし、強い侍、負けない剣術遣いは憧れであり、人々は称賛を惜しまなかった。
寅之助は熊を相手に修業に耐え、からだも昔のようによみがえった。
柳の木の下の縁台で、三年近くの思いを巡らし、茶をすすっていると、しだれ柳を潜り、嫁の夏江が姿を見せた。
「お父上、お客様がお見えです」
腰に木刀を差した孫の平助を連れている。
「お茶のお師匠さんの、長谷川次郎兵衛様ではありません」
先回りしてそう伝える夏江の口調が、妙に重苦しい。
「次郎兵衛ではない客だと?」
またなにかの頼み事かと考えた。
しかし、ふつうの人たちは寅之助の家を知らない。
また自分の家の者も、剣豪じじいとして徘徊している寅之助の実態を知らない。
「お女中でございます。なんでも、剣が縁で知り合ったそうでございますが?」
「剣が縁で知り合った女子(おなご)だと?」
寅之助が顔を曇らせる。女性とは縁がなかったし、剣での色恋沙汰などは考えられなかった。
「とてもお綺麗な方です」
そう言う夏江の目が、きょろっと動く。
「おじいちゃん、その人、あかちゃんだいてたよ」
平助が口をだした。
「赤子?」
男が女をつくって逃げたという相談か。
多額の借金を残していったとか、あるいは女が貯め込んだ金を持ち逃げしたとか。
「生まれたての男の子です。どうしてもお会いしたいと。家のほうでお待ちいただいております」
夏江のようすが、さっきから変だ。
縁台に腰を下した寅之助をじろりと睨む。
「会ってみよう」
妙な感覚が寅之助のからだを圧迫する。
剣が縁で知り合い、おれの家を知っている……素早く頭をめぐらす。
だが心あたりはない。
路地を抜け、弓引町の組屋敷(くみやしき)の我が家にもどると、上がり框(かまち)に一人の女性が座っていた。
旅姿で、抱いている赤子に乳を与えていた。
首をひねり、美人特有の大きな透き通った目で、玄関に入ってきた寅之助を見あげた。
「松下寅之助様」
「あなたは……」
会津磐梯山を望む三本槍岳の修行場で出会った娘ではないか。
家が会津の郷くらいのところまでは知っていたが、本人がそれ以上を語らなかった。
明らかに自分より身分が上の武家の娘と見たので、寅之助も気遣い、穿鑿(せんさく)しなかった。
しかし着物の裾は泥で汚れ、埃だらけである。
荷物も風呂敷一つきりだ。
しかも、赤子を抱いている。
よほどのことがあったのだろう。
慌ててやってきたようすである。
家光の時代になってから、参勤交代もあり、要所に宿場が設けられ、だれもが街道を安全に行き来できた。もちろんそれなりの危険はあるが、女の一人旅も日常である。
「菊乃です。おひさしぶりでございます」
菊乃が、からだをひねって頭を下げた。
無理な姿勢になったため、胸に抱えた乳飲み児の口からぷるんと乳首がこぼれた。
菊乃の体から、若い母親の匂いがあふれる。
「その子は……」
寅之助は訊こうとした。
菊乃が涙ぐむようにつぶやいた。
「あなたのお子でございます」
え?っと不意をつかれた寅之助は、ふらっと一歩後退し、背後の夏江にぶつかった。
夏江は、寅之助を睨みつけていた。
さっきからの視線はそれだったのだ。
「おい、なんだ……なにが、どうなってんだ」
さすがにあわてた。
夏江がぼそりとつぶやく。
「お父上、お元気でなによりです。山で、本当に剣の修業をなさっておられたのですかあ?」
からだを引き締め、隙のない物腰で山から戻ったが、日常生活に熱心な倅の嫁、夏江にはあまり関心がなかった。
日々ぎりぎりの生活は、貧乏御家人に嫁いできた同じ貧乏御家人の娘、夏江のやりくりにかかっていた。
「もちろんです。寅之助様はだれもが遂げられなかった山の修行を無事に終えられ、下山されたのでございます」
口をつぐむ寅之助に代わり、菊乃が夏江の問いに応える。
賢そうな娘さんだった。
だが、いきなり訪ねてきてなぜそんなとんでもない大嘘をつくのか。
どういうことなのか。
寅之助は頭を巡らせた。
すると、菊乃が片目をぱちっと瞬かせた。
訳がある……寅之助は即座に理解した。
「ま、話は……あとでゆっくり聞こう」
夏江に気付かれぬよう、うなづいた。
2
寅之助は菊乃を連れ、また茶屋にもどった。
午後遅く、川岸の縁台の席は三つ先の席に二人の客がいるきりだ。
菊乃は美味しそうに茶をすすり、茶菓子を口にした。
人助けをするようになってから、寅之助には多少の礼金が入るようになった。
もちろん剣豪じじいの人助けは、金銭目当てではない。
だが、生活にゆとりのありそうな相手からは、少しだけ礼金を貰った。
それに、山から持ち帰った熊肝(たんのう)があった。
日本橋の薬屋に見分(みわけ)をしてもらうと、一頭あたりの肝がなんと五両になった。
二十頭であるから全部で百両なる。
熊の胆(い)は、消化器系全般の万能薬として珍重されているのだ。