剣豪じじい 2章
それが寅之助の心に残った。
「この子が大きくなったら、どんな世の中になっているんでしょう」
菊乃が背中の雪之丞の尻を軽く撫で、街道の杉並木の上に浮かぶ、下野国の果ての白雲を見上げた。
今市の宿場に着いた。
日光街道と、会津西街道への分かれ道である。
青雲斎と一刀斎の形見が眠る三本槍岳まではあと二日、会津若松の城下まではあと三日である。
日光東照宮までは、二時間半から三時間。
寅之助がただのじじいとして家に籠っていたとき、朝鮮通信使が東照宮をお参りした。
そのとき一行は、今市に宿をとった。
彼らは日本にいながらも自国の習慣をつらぬき、朝起きると街道に出て道端で一斉にうんこをした。
鶏などが目の前を歩いていれば、追いかけて捕まえ、勝手に持ち去った。
彼ら役人は、国では庶民に対して絶対的であり、何をしてもよい習わしになっていた。
日本の秩序で生きている今市や各宿場の人々は、異国人の挙行にさぞかし驚いたことだろう。
寅之助と菊野は、今市の宿でも裏の物置を提供された。
あと半日もいかにないところに東照宮があったので、大勢の乞食たちのたまり場になっていた。
その乞食たちの大半は、人生に対する執念が深いのか、年寄りの女性だった。
「お鈴」
暗がりの屋根の下にむかい、杖をつき、腰を曲げた姿勢で寅之助が呼びかけた。
ふいに低い騒音がやみ、数十の目玉がまばたいた。
返事はなかった。
「もしや花井清十郎殿はいるのか」
ついで寅之助は、千住で出会った浪人の名を呼んだ。
やはり返事はなかった。
「寅之助さま、あの男はれっきとした侍です。ここにはおりません」
菊乃が背中の雪之丞をおろしながら、寅之助の耳元でつぶやいた。
あ、そうかと寅之助は苦笑する。
「おやまあ。赤ちゃんかえ」
すると目ざとい尼の年寄りの乞食が、一歩踏み出し、歯のない口で笑いながら両手をさしだした。
一瞬、菊乃は身を固くした。
だが雪之丞は、足を蹴ったりも泣き声を上げたりもしなかった。
尼の歳寄りは、ぼろは着ていても不潔な感じがなかった。
菊乃は相手の目を見つめながら、その両腕の上に、肩からおろした雪之丞の身体を置いた。
「おおお」
両手に乗った赤子の重さに、老婆は感動の声を漏らした。
雪之丞も喜んで手足を泳がせた。
すると背後にいた女性も、両手をさしだした。
その手に雪之丞が移されると、中年の女はザンバラ髪を小刻みに震わせ、泣きだした。
さらに他の者も手をのばす。
女性の乞食たちは、それぞれに赤ん坊への思いがあったのだろう。
だが、乞食の女性たちの手に移っていく雪之丞を眺め、寅之助があいだに入った。
「ごめん。風邪が治ったばかりなので、もう母親に返してください。ところで、みなさん夜食がまだのようですから、わたしがご飯を炊きましょう。今日はたくさんの喜捨がありましたので」
そこにはいつもと違う十二、三人ほどの乞食がいたが、そのうちの十人ほどが年寄りの女性だった。
寅之助は表に回り、宿主から米を買った。
大きな鍋を二つ借り、火を焚いた。
無言で二人ほどが手伝い、賑やかに食事が始まった。
当然、寅之助と菊乃についての質問がある。
二人の関係も聞かれ、夫婦だと答える。
赤子の父親は、自分だと告げる。
大事な一言であった。だが、だれもおどろかない。
ついで行く先を尋ねられる。
日光のお参りではなく、会津若松と分かり、全員が不思議そうな顔をする。
「大変だよ。会津西街道は山のなかだよ」
「峠と谷がつづいているよ」
「山賊もでるよ」
「でも、宿場はちゃんとあるからお恵みはもらえるよ」
飯を食って気が楽になったお婆さんたちが、ぼそぼそ語る。
街道を行き来し、生活している連中らしく、事情に詳しい。
寅之助と菊乃の所作から、もうとっくに元武家であったことを見抜いている。
だが、それ以上詳しい経緯を聞こうとはしなかった。
9
今市をでて一時間もしないうち、急峻な登と下りの続く道になった。
江戸にのぼる米沢や越後の旅人が、会津若松を経、馬などに荷を背負わせてやってくる。
谷の道なので、人馬は慎重に歩を進める。
谷川の流れが水音を轟かせ、左右の岩の崖に反射する。
絶景の連続だった。
寅之助も菊乃も一度体験している道だったが、やはり緊張した。
交代で雪之丞を背負う。
「雪之丞、右も左もぜんぶ山だ。この道はなあ、大昔からつづいているんだぜ。古代人が造った路なんだ。それを受けついで、この地の人たちは今も大切にしているんだ。すごいだろう。江戸じゃあ、こんな道はありえねえし、こんな景気も見られねえ」
寅之助は、背中の雪之丞に語りかける。
登り下り、そして曲がりくねった崖が続く。
泡立つ白い飛沫が、眼下で渦を巻き、湿気を含んだ風が谷沿いに流れる。
雪之丞が手足を躍らせ、左右に体を揺すった。
嬉しがっている──。
「頭、あぶない」
背後の菊乃が叫んだ。
寅之助は左の崖の壁を伝う、ごごっという音を聞いた。
岩壁に体を密着させた瞬間、こぶし大の石が肩をかすめた。
落石は、下の流れで飛沫をあげた。
寅之助は胸をなでおろし、背後の菊乃と顔を見合わせた。
「いま雪之丞はたしかにもがいた。嬉しがったのか、それとも危険を知らせてくれたのか、どっちだろう」
「両方でしょう」
菊乃が都合のよい返事をする。
「明後日には、父上のお墓にお参りするからね」
生後五ヶ月にちかい雪之丞は、二人の会話を理解しているかのように顔をあげ、微笑む。
青雲斎と一刀斎の墓を建てたかったが、墓などいらぬ、静かなままがいい、と言っているような気がした。
大きめの自然の石を置いておこう、と寅之助は考えていた。
風雪に耐え、自然と共に永遠にそこに鎮座し、会津の青い空を見あげる。
菊乃もその案に賛成だった。
三本槍ヶ岳に通じる脇道に入った。
森のなかの斜面を登る。
そろそろ熊が出没する季節なので、気をつけようと灌木の間を縫い、尾根伝いに山路をたどる。
頂に近づくと、曲がりくねった細い獣路になった。
頭上を木立がおおい、暗い隧道のようになる。
あの日の夜、菊乃とお付きの家来は賊に襲われ、この脇路に逃げ込んだ。
そして菊乃だけが助かった。
三本槍岳の頂のふもとに着く。
遥か北には、磐梯(ばんだい)山が雄姿を見せている。
青雲斎の家は潰れ、土の山になっていた。
例年になく雪が多かったので、重さに耐えられなかったのか。
脇路の木立の下に、いくつもの丸太の墓標がならんでいる。
墓の前に立ってみた。
菊乃は、青雲斎は修行中に山で死んだ、そのままそっとして欲しいとの意志だった、と母親に報告した。
弟子たちの小屋も、その年の大雪で潰れかけていた。
寅之助が住んでいた小屋だけが残っていた。
何本かの柱を補給し、壁も土で固めなおしてあったからだ。
入ってみると、竈(かまど)には古い灰がまだ残っていたし、傍らには薪も積まれていた。
持っていけずに残してあった干し肉はなくなり、吊るしてあった紐だけが垂れ下がっていた。
だれかが小屋を利用したようだ。
布団代わりの何枚もの藁(わら)の筵(むしろ)が、横棒を渡した柵に掛けられ、からからに乾いている。
寅之助は筵を柵からはずし、下に敷いて居場所を作った。