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「でも、確かに仰る通りです。今も少し、足元がはっきりしないというか……」
絹山はそう言って、片足を持ち上げた。高落は慌てて松葉杖を差し出し、反対側に絹山が倒れないよう防いだ。
「マジで、自分をテストするのやめなって」
「はい、やはりちょっとふわふわします。止めていただき、ありがとうございました」
絹山はそう言って小さく頭を下げたが、駅が人類の敵にすり替わったように、恐る恐る視線を向けた。自分もそんなときがあったから、よく分かる。自分の体調不良で家に帰ったという体にしたくないのだろう。
「絹山さん。わたし、新入りだから。色々教えてたってことにしたら? 委員会の仕事も大事でしょ」
高落が言うと、絹山はふっと息をついた。そのとき、普段は変化が分かりづらい眼鏡のフレームの後ろで、目の輝きが増した気がした。
「天才的だと思います」
「そこまでか? ありがと。天才はちょっとひと息つきたいんだけど。モス寄らない? そのままだと、家まで危ないかも」
頭では、何も深く考えていない。でも、言葉がぽんぽんと出てくる。ネムと話していたらいつも聞き役なのに、絹山がこの調子だからか、本来の停止線を飛び越えてずっと話し続けてしまっている。高落が居住まいを正すと、絹山は首を傾げた。
「それは、飲食店に帰宅途中に立ち寄るということでしょうか?」
「ルールを守らない生徒たちがどこで時間潰してるか、興味ない? そういうのを知るのも、委員会の仕事かもよ」
高落がそう言って笑うと、絹山はしばらく俯いた後、ようやくうなずいた。駅の中央口を反対側に抜けた先にあるモスバーガーは、隠れ家的なスポットだ。そこまで行かなくても立ち寄れるお店はいくらでもあるから、同級生はわざわざ駅の反対側まで来ない。
駅を抜ける間はほとんど話さなかったが、お店の自動ドアが開いたとき、絹山は言った。
「あの、注文は決まっていますか?」
「店員さんみたいなこと言うじゃん」
高落はそう言って自動ドアを通り抜けると、レギュラーメニューのシェイクを注文した。絹山はボディランゲージだけで同じシェイクを注文し、テーブル席の前まで来たとき、自分のシェイクをテーブルの上に置いて、両手を差し出した。
「松葉杖、預かりますよ」
「マジで? 助かる」
高落は松葉杖を片方に束ねると、腰を下ろした。絹山はそれを受け取って、目を丸くした。
「これ、意外に重いんですね」
「最初ビビるよね、こんなの逆に邪魔じゃねって思っちゃったぐらい」
高落はそう言うと、絹山が丁寧に松葉杖を立てかける様子を見て、笑った。
「テキトーでいいよ、病院のレンタルじゃないし。わたしのバイト代で買ったやつだから」
絹山は首を横に振った。左右に揺れていてよく見えなかったが、その表情は笑顔だったような気がした。
「その考え方には、共感できます」
そう言うと、絹山は丁寧な仕草でシェイクにストローを刺した。お互いに最初のひと口を飲んでひと息ついたとき、高落は言った。
「ずっと一位って、それこそ信じられないんだけど。中学って、私立だっけ?」
「いえ、公立でした。高落さんは?」
すぐに話題が切り替わり、高落は目を伏せた。自分の話を広げられたくないのかもしれない。だとしたら、まずは自分の話だ。絹山の話は後で聞こう。高落はそう決意して、話し始めた。
「私立だったよ。ずっとソフトボールの強いところを渡り歩いてる感じ」
「すごいですね。スポーツって、同じことを学んでいるわけじゃなくて、突出した才能の集まりじゃないですか」
絹山は文武の文に振り切っているタイプのはずだが、スポーツの世界についても理解がある。高落は肩をすくめた。
「すげー奴は、確かにいるよ。でもチームプレーだから、それはそれで割り切る感じかな。きっかけも些細で、小学校のときにスポーツ大会みたいなのがあって、お祖父ちゃんに送球を褒めてもらったんだよね。本人はそんな、本気にするとは思ってなかったらしいけど」
「褒められたことがきっかけになるのは、よく分かります」
絹山は両手の指先で紙コップにそっと触れると、神妙な表情で続けた。
「私にとっては、母がそれに当たります。風邪を引かなくて偉いと言われたのがきっかけで、体調管理を徹底するようになりました」
「だから、今日も体調不良で休むのは嫌だった感じ?」
「そうです。自分を律することができなかったというのは、なんともお恥ずかしい限りです」
「色々、限界だったんじゃない?」
高落が言うと、絹山はうなずきかけたが、最終的に首を傾げた。頭の中で会話を巻き戻しているということに、高落は気づいた。
「私が初めて一位を取ったのは、中学校に上がってすぐの中間テストでした。両親は喜んでいました。二位との点数が離れていて圧勝だと」
絹山が静かに話し出して、高落は耳を澄ませた。周りの嬌声に比べたら、このテーブルの会話はほとんど内緒話だ。でも、実際そうかもしれない。今、自分の頭に浮かんでいることは、ここまで支えてくれた両親に絶対に言いたくないことだから。それは、絹山も同じなのかもしれない。
「二位の人には悪いですが、結構な点数差があるというのは、私も思いました。この差は結局、卒業まで埋まりませんでした」
そのプレッシャーは、なんとなく分かる。それは人から押し付けられるものじゃなくて、無言の期待に応えようとする自分の気持ちから発生するものだ。お祖父ちゃんが試合を見に来ることを期待して猛練習をしていた、小学生のころの自分。あの心理状態も、今思えば絹山のそれと似ているのかもしれない。高落は低く唸ると、言った。
「どこかで、一位を取ることが当たり前になってたってことか。まー、できちゃうのがすごいけどな」
「高校に上がってからも、同じようにできていたのですが。全盛期ほど集中力がなくなったようにも感じます。なので言い訳になりますが、今回はあまり勉強ができていませんでした」
「あのさ、わたし先生じゃないから。もっと自由に言い訳しなよ。他にもなんかあるでしょ」
高落が言うと、絹山は唇を一度固く結んだ。
「驚きませんか?」
「今日、眼鏡が指紋だらけで、真っ青で倒れて、校則ガン無視でわたしとシェイク飲んでるんだよ。これ以上、驚くことある?」
冗談めかした高落の口調に、絹山は根負けしたように口を開いた。
「私の住んでいる家は公園の外周に建っているんですが、敷地を挟んだお向かいさんと、私の両親は昔から仲が良くてですね。そこの娘さんが中学生になったのですが、お友達の多い方で。夜まで公園で遊んでいる声が私の部屋までよく届くので、最近は家で集中できないことが多くなってまして。すみません、上手く説明できなくて。今ので伝わりましたか?」
「うん、百二十パーセント。もう、絵まで浮かんでるよ」
そう言って、高落が目を大きく開きながらうなずくと、絹山は言いづらいことを告白し終えたように、大きく息をついた。高落は会話のボールがまだ自分にあることに気づいて、続けた。
「委員長なんだからさ、注意するのは得意じゃん。ガツンて言ってやりなよ。顔見知りなんでしょ?」