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「急に、糸が切れたみたいに倒れたからさ。心配したよ」
「頭を打たずに済んだの、高落さんが下敷きになってくれたからだよ」
薬師寺が高落の肘に貼った湿布に視線を向けながら、言った。絹山は身体を起こすことなく、首をぐるりと回して高落の方を向いた。
「ありがとうございます。大丈夫ですか?」
絹山が言うと、高落は歯を見せて笑った。
「打ち身になってるだけ。足折れてるし、これ以上どこを怪我したって同じだよ。復帰できない可能性高いし」
「もー、医者の前で言うことじゃないでしょ」
薬師寺は呆れたように合いの手を入れると、高落と絹山の姿を交互に見ながら言った。
「にしても、珍しいコンビだな。でこぼこっつーか」
「生徒の前で言いますか、それを」
高落が即座に撃ち返し、絹山はくすりと笑った。ずっと頭に籠っていた熱が引き、喉の滑りが良くなった気がした。
「高落さんとわたしで、委員会の仕事をやることになりました」
「そうなんだ、新しい風だね」
薬師寺はそう言うと、明らかに派手で委員らしくない高落の外見を見渡した。高落が相槌を打ちかけたとき、絹山の学生鞄の中でアラームが鳴った。
「失礼します」
絹山はベッドに横たわったまま、宣言するように言った。
「どこに行くの?」
高落が慌てたように背筋を伸ばし、絹山は目を大きく開きながら答えた。
「塾です」
顔をしかめながら体を起こすと、絹山は止めようとする薬師寺の手をすり抜けて、ベッド脇に置かれた靴を足で雑に引き寄せてつっかけると、高落に言った。
「助けていただき、ありがとうございました。また明日」
鞄を肩に掛けて、これ以上の干渉を諦めた薬師寺が椅子ごと後ろに下がったとき、絹山は頭を下げた。
「薬師寺先生も、ありがとうございました。また明日、よろしくお願いします」
貧血で倒れたことなど、今までなかった。保健室であんな風に療養したこともないし、そもそも風邪すら滅多に引かない。
『京子は丈夫ねえ』
子供のころに、お母さんに褒められた。それが誇りとなって、極端に自律する性格の基礎となった。人に同じことを求めるつもりはなかったが、小学校高学年のときに生徒会長をやるよう勧められるのは、当然の流れだったかもしれない。今度は、お父さんとお母さんの両方が褒めてくれた。その貯金が今の自分を生かしているし、それを糧にして『ひとつのこと』を期待されている。それは自分が突き進んでいる道で、順位が決められる機会があれば、必ず一位を取るということだ。中学校一年生の二学期、懇談で進学校を提案されたときに、両親は絹山京子の道を『学業』に設定した。塾に通うようになって成績は飛躍的に伸びたし、文化祭の準備で季節外れのインフルエンザに罹ったとき以外は、中間試験と期末試験の両方で、一位の座を守り続けた。問題は、高校生に上がって粒ぞろいになっても同じ成績が出せるかということだったが、それについても、うまくいっていた。
今までは。
絹山は早足で駅までの道を歩きながら、頭の中を占有し始めている別の問題に、唇を固く結んだ。今はそれどころじゃないのに、この大事なときに仕事を増やすなんて。高落さんのことは、悪く思っていない。ソフトボール部のエースで、その派手な見た目も含めて、学校の顔だ。真面目に取り組んでいる姿を何度も見てきたし、友人たちはさておき、本人はストイックだと思う。ただ、人にルールを守らせるようなタイプではない。
「あと二人……」
三位というのは、あと二人というのと、果たして同じ意味なのだろうか。実際には下り坂の始点にいて、例えば成績発表から数時間が経過した今であれば、すでにトップ十位から滑り落ちるぐらいに、頭が色んなことを忘れている可能性だってある。おまけに今は、家の周りも勉強に集中できる環境ではない。赤信号に変わった交差点で足を止めたとき、意に反して身体がまだ動いていることに気づいた絹山は、思わず顔を上げた。がちゃんがちゃんと松葉杖の忙しい音が前に回り込んで、息を切らせながら高落が言った。
「危ないって、轢かれるよ」
絹山は一歩下がると、高落の体を庇うように、交差点の内側に寄せた。
「高落さんも、下がってください」
松葉杖を支点にして器用に方向転換すると、高落は言った。
「マジで塾に行くの?」
「もう、後がないんです」
絹山が毅然とした態度で言うと、高落は顔をしかめた。
「いや、三位でしょ? ほとんど一位じゃん」
「成績に興味などないはずのあなたが、どうして……」
「色々と失礼なんだが。まあ、いいや」
高落が松葉杖をついたまま肩をすくめると、絹山は眼鏡をずり上げた。
「そういう話題が、友人間で共有されているということですか?」
「まー、学校であったことは回ってくるよ。ねえ、ほんとに塾に行かなきゃならない? さっき、わたしが咄嗟に下敷きになれたのはさ。失礼だけど、顔色がマジで最悪だったから。メガネだって指紋ヤバいし、ほんとはもっと几帳面だよね?」
高落が早口で言い切ると、絹山は顔から眼鏡を外して、地層のような模様が伸びるレンズに目を向けた。
「昼休みに、無意識に触っていたのだと思います。昔の悪い癖が出ました」
絹山は、歩道の切れ目でクロスを取り出し、眼鏡を拭き始めた。高落は体でそれとなく絹山を端に寄せて、透明感を取り戻した眼鏡を空に向けて掲げる姿を見ながら言った。
「掟みたいなのがあるの? 一位を取らなきゃって」
「高落さんだって、試合に臨むとき、準優勝を目指すことはありませんよね?」
「もちろん、気持ちはそうだけど。実際に勝てるかっていうと、そこは別問題だよ。全員の息がぴったり整うなんて、あり得ないしさ」
高落はそう言ったとき、ピントがずれていることに気づいた。絹山の場合、その性質はチームプレーとはまた異なる。
「個人戦だと、プレッシャーはきついかもね」
補足するように高落が言うと、絹山は新品のようになった眼鏡をかけて、うなずいた。
「その感じだと、塾を休んだことはないんだ?」
「あります」
絹山は屈辱を追体験するように、真剣な表情で呟いた。高落は周囲を見回した。夕日の色が少しずつ濃くなって、駅に向かって歩く人たちの影も少しずつ深くなっていく。ここに、夜まで取り残されたくない。そう思っていると、同じ感情を共有するように、絹山は駅の広場に建つ時計台に目を向けると、片手で胸元を押さえた。
「時間が……」
「そんなギリギリで動いてたの? うちらが保健室にいたの、十五分ぐらいだよ」
驚いた高落が言うと、絹山はスマートフォンを鞄から取り出して、塾に電話をかけた。前置きがしばらく続いて核心に触れかけたとき、絹山は高落と目を合わせた。高落は口の形だけで『休みます』と言い、絹山はそれに縋りつくように呟いた。
「あの、そういうことでして、今日は休ませていただきたいです」
何度か頭を下げながら会話を終え、絹山はスマートフォンを鞄に戻した。絹山が顔を上げるより前に、高落は言った。
「どうだった?」
「心配されました。声の調子がおかしいと」
絹山が恥ずかしそうに言い、高落は笑った。
「声は、わたしが目の前にいるからでしょ」