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「あー、いよいよ岡ちんの告白か。イヤだな」
「悪くないかもよ」
ネムは、かぎ爪のように巻いた髪を指にひっかけながら笑った。高落は慣れ親しんだユーモアに笑いながら、首を横に振った。
「部活、クビかもしれんね。この足じゃ役に立たないし。ネム、養ってくれる?」
「沙也加は今までの功績があるから、卒業までのんびりできるって。学校の顔でしょ?」
ネムがそう言って肩をポンと叩いてきたとき、取り巻きが集まってくるのが見えて、高落は松葉杖を手に取って立ち上がった。取り巻きは、ひとりハブられて現体制は三人。上手い具合にネムより少しだけメイクが下手で、運動音痴で、成績が悪い。こんなピラミッド型の交遊関係を作り出せるなんて、やはりネムは人付き合いの天才だと思う。
「じゃあ、ちょっと絞られてきますわ」
高落が言うと、ネムの周りをガードする取り巻きが『バイバイ』の仕草をした。最後の挨拶は、いつもネム本人。お昼に日直の話をぶつけたからだろうけど、今日はスマホを鏡代わりにしながら呟いただけだった。
「後は、お絹がやるんじゃね? じゃ、また明日ね」
日直をする気は、元からなかったらしい。取り巻きの『ボスを困らせるな』オーラが少し強くなり、高落は教室から出た。結局は、わたしもこっち側なんだよな。部活で実際に忙しかったとはいえ、甘えていたのは事実だし、その相手はよりによってネムの取り巻き達だ。だから強くは出られないし、ルール通りやれなんて、口が裂けても言えない。それに、自分が役立たずになった瞬間ルールのことが気にかかるようになったのだから、それはそれで勝手なものだと思う。
怪我の間だけはルール重視に方針転換させてほしいという甘えも、もちろんある。なぜなら、松葉杖は救世主ではあるけど、さすがに一日過ごすと肩が痛いし、まだ二日目だから慣れていないだけなのか、これからどんどん痛くなっていくのかも分からない。そして、特別に使用許可が下りたエレベーターで職員室に行くまでに、『足、大丈夫?』と声を掛けてきた同級生は二十七人いて、今だけは注目されないよう、そういうスイッチが欲しくなっているような状態だから。
職員室のドアを開いて一礼すると、自分の仕事に専念する先生の中で、岡本だけがすでに入口の方を向いていて目が合い、高落は自分がいかに注目されているかということを痛感した。
「失礼します」
頭を下げて一歩を踏み入れると、岡本の隣に立つ絹山が小さく頭を下げた。高落は二人の前まで移動すると、岡本に勧められるままに椅子へ腰を下ろした。
「処刑ですか? 日はいつです?」
「ははは、怪我しても軽口は変わらねーな。違うよ」
岡本が安心したように笑い、視界の隅っこで絹山の口角がコンマ二ミリほど上がった気がした。処刑というフレーズに笑ったのか、本当に処刑する気になったのか。本題に入るのを高落が待っていると、岡本は絹山の方を一度向いてから、咳ばらいをした。
「委員会に入ってほしい」
「いや、先生……。わたし、こんな軽いキャラなのに委員なんて。風紀が乱れませんか?」
「真面目な話をすると、内申点関係だ」
岡本の単刀直入な言葉に、高落は顔をしかめた。それ、絹山の前で言う? そういう話は個別に呼ぶもんじゃない? 言葉に出なかっただけで全て伝わっていたらしく、岡本は表情を険しく切り替えた。
「試合は、確実に二回は飛ぶ。その間に実績がゼロなのは、将来のことを考えるとまずいんだよ」
高落は、絹山の表情を窺った。この会話自体には興味がないように、明後日の方向を向いている。それどころか、他に考え事をしていて、心ここにあらずといった感じだ。岡本は絹山の方を振り返り、全く目が合わないことに気づいて手を振った。
「絹山、おーい? 明日から、色々教えてやってほしいんだ」
氷のような目線が戻ってきて、絹山はうなずいた。
「承知しました」
「高落も、構わないな?」
「はい。あまり期待しないでほしいですけど」
高落はそう言うと、絹山と一緒に職員室から出た。まず気づいたのは、その空気の重さだった。小柄で細いのに、絹山からは凄まじい重力を感じる。
「あの……、よろしくお願いします。何から手伝いましょう」
高落が言うと、絹山は前を向いたまま目を伏せた。
「今はちょうど空白期間なので、委員会の仕事は特にないです。なので、高落さんは怪我の治療に専念してください」
実績などなくても『怪我による休部中は、委員会にて積極的に活動』と、歯の浮くような内容がコメントに書かれるのだろう。絹山もそこまで理解していそうだし、岡本先生に話を通したのが大橋先生だとしても、不思議じゃない。ネムなら『甘々貴族』と言ってきそうだ。高落は小さく頭を下げた。
「じゃあ、何かあれば」
絹山は高落の顔を見ると、口角だけではなく少しだけ歯を見せて笑った。
「はい、よろしくお願いします」
そう言って絹山が歩き去った方向は正門ではなく、教室の方向だった。高落は松葉杖を大きく振りながら追いついて、言った。
「帰らないんだ?」
「日直の仕事が残っています」
絹山はそう言うと、階段を静かに上がっていった。高落はエレベーターに向かうと、呼び出しボタンを連打した。何故か分からないけど、ここで帰ったら終わりな気がする。エレベータ―に乗って三階まで上がり、教室の前に辿り着いてようやく、高落は額に浮いた汗をぬぐった。やがて、機械のような一定のペースで足音が聞こえてきて、先に高落がいることに気づいた絹山は、超常現象を観測したように顔を引いた。
「どういうことですか?」
「エレベーターだっつの。あ、使用許可は出てるからね」
「それは、知っています」
絹山はそう言うと、教室の扉を開けた。誰もいなくなった教室には、まだ大騒ぎの後始末が済んでいないみたいに、影絵のような人の気配が残っている。これから少しずつ熱が引いていって、夜中になるころには完全に冷え切るのだろう。今はまだ、カーテンの隙間から差し込む淡いオレンジ色の夕日が隙間を縫って、寸断するように机を照らしている。その色合いは綺麗だけど、全員に光を当てる余裕はなさそうだ。夕日だし、沈み切るまでのタイムリミットはあまりにも短い。教室に入ってすぐの場所でカーテンを眺めていると、黒板消しを壁に叩きつける平手打ちのような音が鳴って、高落は肩をびくりと震わせてよろめいた。絹山は黒板消しを片手に持ったまま振り返り、小さく頭を下げた。
「これ、音大きいですよね」
いや、音の原因は黒板消しじゃなくて、あんたの力加減じゃない? 高落は口に出すことなく、愛想笑いを返した。
「ごめん。わたし、あまりにも日直やらないからさ。色々忘れちゃってる」
絹山は黒板消しを定位置に置くと、首を横に振った。
「怪我をしているのだから、休んだらいいと思います」
「うん。でもさ、今までも部活が忙しいからって、見逃してもらってきたから。得意分野では当面お役に立てなさそうだし、委員会の件もそうだけど、存在意義を守るためになんかしないとって感じ? やば、わたし喋りすぎてる?」
高落が姿勢を正すと、絹山は備品リストと書かれたバインダーを胸の前に掲げて、首を横に振った。