二つの世界と同じ顔
「戦争放棄」
という憲法の下にあるので、ライバル視することもなければ、
「仮想敵」
と規定する国もないだろう。
しかし、彼らには、
「自衛隊」
なる、
「国防及び、災害時や緊急時の対策部隊」
というものがある。
「防衛のため」
ということでの、先制攻撃は許されておらず、それにより、
「相手が攻めてこないと何もできない」
ということで、だから、あの国の警察は、
「何か事件が起きなければ、動かない」
という、悪しき伝統となっているのだ。
もっとも、それは、憲法のせいではなく、
「昔の特高警察のような状態にしてはいけないからだ」
という人もいるが、確かにそれはいえることではあるが、それは、警察というものの、
「詭弁でしかない」
といえるだろう。
もっといえば、
「自衛隊」
という軍隊は、最初こそ、
「防共」
ということで、共産主義の脅威に対しての国防であったが、今はそうではない。
確かに、
「災害時の部隊」
としては、強力であるが、
「政府が見ている自衛隊の存在意義」
というのは、
「我が国を属国としている国から、武器を買うように強制されているので、その受け口としての、自衛隊の存在」
ということになるのだ。
もちろん、世界的な有事に、
「憲法の範囲内での行動」
を考えると、当たり前のことであるが、そのせいもあってか、
「日本における自衛隊の威力は、世界でも有数の力がある」
と言われている。
ただ、
「実戦経験に欠けているので、どこまで武器を駆使した作戦に従事できるか」
というのが、実に大きな問題なのだろう。
それを考えると、自衛隊というものが威力を発揮できるかどうか、本来なら、
「自衛隊の出動がない世界」
というのがいいに決まっている。
「災害だって、ないに越したことはない」
といえるからである。
「こちらの世界の我が国も、戦争放棄を中心とした憲法を制定したが、どうも、それが壊れかけている」
といえるだろう。
ただ、この国に迫っている危機は、想像以上に早いもので、その危機をたくさんの学者が危惧している。だからこそ、秘密裡に、部隊を形成する必要があるのだが、その作戦として今考えられるものの第一歩として、
「死刑廃止」
というものがいわれているのだった。
そして、死刑廃止に伴って、
「死刑廃止」
となった状態で、死刑が確定していて、後は執行を待つばかりであった死刑囚は、かなりの数があった。
全国で、数百名がいるという。
そもそも、
「死刑執行」
が存在する国であり、凶悪犯に対しての、
「当たり前」
といえる死刑判決において、刑の執行を言い渡す職にある、
「刑務大臣」
というのは、その人の心次第で、執行されることになっていた。
前の内閣の、刑務大臣から、ほとんど死刑執行は行われていない。
というのも、
「俺の代で死刑疾呼汪が行われたら、俺の名前がのこるじゃないか?」
というそれだけの理由だった。
だから、死刑執行は、
「次の刑務大臣にやってもらうか」
と思っていたのだが、結果、内閣が変わっても、また刑務大臣は自分であった。
ということである。
正直、刑務大臣というのは、
「やりたくない大臣のワースト3に絶えず入っている。やはり、死刑執行を言い渡し、それを見届けなければいけないというのは、誰もしたくないのだろう」
それが、なかなか最近死刑執行が行われない理由だったのだ。
だから、死刑執行が行われなかったわけだが、今回はそうはいかない。
「新しい警報が施行されるまでに、死刑囚を生かしておくわけにはいかない」
ということである。
今度の法律は、死刑はなくなるが、生存しての刑は重くなった。
終身刑が二段階方式で、
「今まで死刑となるような案件は、高度の終身刑ということになり、恩赦などはまったくなく、それこそ、死ぬまで刑務所の中」
ということになるのだ。
「だから、シャバに出ることがあるとすれば、病気になり、刑務所では治療ができない場合、病院の中に備え付けられた、
「終身刑の人間用の習慣場所」
ということで、
「もちろん、自由などあるわけはなく、ただ、治療というだけに専念するという独房である」
独房にする理由は、
「他の人と一緒にして、脱獄をできないようにする」
ということで、いくら病院とはいえ、終身刑用の病棟は、
「絶対に逃げられない」
という形になっているのであった。
独房というところで、もし逃げ出そうとすれば、鉄格子は三重になっていて、真ん中のところには、高圧電流が流れていて、
「表からも、中からも、高圧電流を切らない限り、絶対に逃げられない」
ということだ。
そんな状態において、逃亡は絶対にできないようになっている。
しかも、それは、
「死刑囚に対してのものよりも、厳しいもの」
ということで、
「ワンチャン逃げられる」
などと思ったら、大きな間違いだ。
高圧電流に触れれば、少なくとも、一瞬にして即死であり、下手をすれば、
「電気椅子」
といってもいいくらいで、それこそ、
「どこが、死刑廃止なのか?」
といってもいいだろう。
それだけに、法律施行前と後とでは、同じ立場であった、
「死刑囚」
と、
「最高終身刑」
という立場では、同じなのだろうが、刑務者としては、最高終身刑という方が、本当はつらいことになるのだろう。
「人間らしく、生きることもできなければ、死ぬこともできない」
それが、最高終身刑であったのだ。
だから、これだけ違う刑務ということなので、
「法律が変わるまでに、今の死刑囚は、すべて、整理する必要がある」
ということなのだ。
安楽死
死刑執行には、あまりにも人数が多いということで、刑務大臣は、
「なるべく人を殺す人間を減らしたい」
と考えていた。
実は、今の死刑囚という人間の人数は、実際の刑務の数と、白書に報告されている数とでは、若干違っているのだ。
実際の数の方が、死刑囚と記された人の数よりも多いのだった。
そこで、
「少しでも、数を少なくすることができるのだろうか?」
ということであり、そこで考えられたのが、
「皆同じ顔にしてしまうと、数をごまかせる」
という、まるで小学生のような発想であったが、刑務大臣は、そんなことを考えていた。
だが、その研究を、別の意味で行っていたのが、黒岩博士だった。
彼は、
「人間というものが、同じ顔になると、どういう心境になるのだろうか?」
という研究を考えていた。
これを知っている人はほとんどおらず、大学でも一部の人間が知っているだけだった。
もちろん、
「そんなことが、国家を通してできるわけはない」
ということで、
「机上の空論だ」
ということで考えられていたが、黒岩博士と、大門博士は、正直、
「できないわけはない」
とまで思っていた。
大門博士というのは、黒岩博士に比べると、かなり年齢が若い。まだ40前であったが、すでに博士号を取得していて、黒岩博士のグループの中でも、
「天才肌」
として、他の人と、明らかに違った頭を持っていたのだった。