剣豪じじい 1章
新しい修行者を受け入れた小屋の入口には、梁(はり)に破れかけた茅(かや)の筵(むしろ)が吊るされていた。
ほのかな明かりは、孤高の静かさを打ち破る灯(ともしび)だった。
だが『今晩は』などと声をかける訳にはいかない。
いつもの足取りで、精神を研ぎ澄まして通りすぎるだけだ。
雑草の生えた、路の土を踏み、寅之助が茅の筵のまえにさし掛かったときだった。
茅の扉が揺れ、平べったい影が飛びだした。
その瞬間、ひらりと白刃が舞ったような気がした。
下げていた寅之助の左手が重さを失い、ふいっと浮きあがった。
紐でくくられた熊の肉が一部を残し、切り落とされていた。
平べったい影が音もたてず、姿を見せた。
腰の曲がった痩せた老人だった。
寅之助も老人ではあるが、そんな洗濯板のような老人は見たこともなかった。
頬骨が突き出て頬が窪み、点のような二つの目が顔の真ん中に並んでいる。
その黒い粒が、鋭い光を放って瞬く。
「この肉、もらうぜ」
かがみこみ、寅之助の足元に落ちていた肉を掴んだ。
寅之助には剣豪独特の勘があった。
刀は、寅之助が後ろ足から前足に体重を移動させようとしたその隙にひるがえった。
無防備な瞬間だった。
下げた肉でなかったら、自分がばっさりやられていただろう。
「どなた様でございましょう……」
無意識のうち、言葉が出ていた。
「名乗るほどの者ではない」
ご老体は穏やかに答え、澄んだかすかな笑みを浮かべた。
「ただの大年寄りだ」
素直な言葉の響きだった。
「しかし、見事な一刀で……」
おどろきの余韻が、じーんとからだに残った。
超ご老体は、曲がった腰をゆっくり起こした。
背筋がゆっくり伸びた。
そしてなんと、寅之助よりも頭一つ大きくなった。
若い頃は骨格の太い、がっしりした体つきの剣豪だったに違いなかった。
青雲斎とおなじように頭髪はない。そして髭だらけだ。
ぼろぼろの衣服にあばら骨がのぞいた。
「さすが青雲斎の弟子だな。おれの剣を読んだか」
「あのような素早い手さばき……」
それ以上の言葉が出なかった。
寅之助は、提げた残りの肉片の切り口をもう一度眺めなおした。
熊肉は、自分の左太腿にぴったり寄せて下げていた。
が、寅之助のからだに一筋の傷も残さず、その老人は切り落としていた。
「久しぶりの肉の匂いに、つい手が出てしまった。山での楽しみはやはり獣の肉に限る。薪があったら少し分けてもらえるか」
「はい」
かしこまって答えながら、この人はだれだろう、と寅之助は記憶を探ろうとした。
「取ってまいります。少々お待ちください」
寅之助は、やってきた畑の路を引き返した。
手桶の水と軒下に積んだ薪を抱え、大急ぎで戻った。
曲がった腰、洗濯板のような体躯で稲妻のように刀を振るうご老体。
『まさか……』
生きている訳がなかった。
一人の男の名が閃いた。
『伊藤一刀斎』。
二代将軍、徳川秀忠に剣術指南役として召し抱えられた小野次郎右衛門忠明の師である。
その剣術では、最初の一撃で相手を仕留め、倒してしまう。
何度も相手と撃ち合い、追い詰める剣ではない。
瞬間に勝つ、剣法だ。
名実とともに天下に認められるまで『我こそ天下一、伊藤一刀斎』という幟をたて、諸国を漫遊した。
宿屋に着けば看板を表に掲げ、その地の剣豪との果し合いを敢行した。
その結果、真剣勝負で三十三回、木刀勝負で六十二回、その他の試合で五十七人を倒すなど、数知れない勝利を記した。
これらの数字に対し、剣豪の仲間たちはこう述べた。
「そのくらいは当然であろう。これは決して一刀斎を大げさに語る数字ではない」
それなのに、弟子の小野次郎右衛門に極意を伝授し、姿を消してしまった。
その後の消息はだれも知らない。
生きていれば、とうに百歳は越えているはずである。
今、皮だけの骸骨のようなご老体が、七十歳になった寅之助のまえにいる。
剣豪だった寅之助は、頭の中をもう一度探ってみた。
やはり、匹敵する人物は一人だけだった。
寅之助は、積み上げた薪に火をつけた。
煙がゆらぎ、一気に炎が立ち昇った。
と、腰に刀を差したご老体が、持っていた肉の塊を宙に投げた。
剣が小刻みにひるがえった。
燃えさかる薪の小山の上に、ぼとぼとぼと、と薄切りの肉片が落ちてきた。
最後の一刀が、火吹き竹を咥えて屈む寅之助の頭をかすめた。
薪の上で、肉片が勢いのいい炎に炙(あぶ)られ、じゅわっと反応した。
一刀斎の腕に舌を巻きながら、寅之助も負けじとばかりその肉に、右から左へとすばやく塩を振りまいた。
寅之助が山に籠ってからの初めての客人だ。
修行の身であっても、やはり人は恋しい。
ゆっくりしていってもらいたい、という世俗の願望が頭をもたげる。
もし本当に一刀流の伊藤一刀斎であれば、なおさらである。
本物であれば、一刀流の極意を伝授して貰らいたい。
山に籠った剣豪が掲げる成果として、自分の新陰流と一刀流を組み合わせ、新しい剣法を編みだす。
容易ではないが、うまくいけば、その名は『寅陰一刀流』だ。
そうなったらお茶の師匠の次郎兵衛が驚くどころか、ひょっとして徳川様に気に入られ、指南役となって三百石以上を増加される可能性もありうる。
三部屋だけの、五十石取りの下層御家人だ。
倅の重太郎、嫁の夏江、孫の寅太郎の喜ぶ顏が見たい。
『ごろごろ隠居のぶらぶら剣豪』だなんてもう言わせない。
出立(しゅったつ)時に念をおされた家への手紙はまだ書いていない。
しかし、神田川べりの組屋敷の家族は、いつも胸の中にある。
剣豪になるため、山で修行に励む覚悟の者に『心配だから手紙を書いてくださいね』と念を押す嫁の夏江は、剣豪をなんと思っているか。
だいたいこんな人の住まない山の中に、常備飛脚はいない。
いつしか月がでていた。
満月で明るい。
焼肉の匂いが漂いだす。
師匠の青雲斎に届けるつもりの肉だった。
そよ風に乗って、師匠の住み家まで匂いが届いているだろう。
気づいた師匠が家からでてきて、庭からこっちをうかがっていないか。
寅之助は、前方の草の路をうかがった。
もちろん用が済みしだい、師匠にも肉を届けるつもりだ。
月に照らされ、墓標の路がまっすぐのびている。
切り株のある庭が見える。
半分屋根の傾いた青雲斎の小屋が、危なっかしい影を見せている。
と、月夜の空から黒い影が降ってきた。
「いやあ」
するどい声がし、木刀が飛んできた。
ご老体の一刀斎は、一本の燃える薪(まき)を握っていた。
薪の煙が横にたなびき、再度払ってきた木刀を弾き返した。
「お師匠、おみごと」
白い髭を胸までたらした褌一本の青雲斎が、面目なさそうにそこに立っていた。
落ち葉のはりついた尻を、片方の手で払う。
手にした木刀の力を抜き、禿げた頭をさげる。
「青雲斎、だいぶ腕をあげたようだな。まあ肉でも食って元気つけてけ」
一刀斎は、薪を足元の焚火の山に投げ捨てた。
百歳超の一刀斎が、八十歳の青雲斎にねぎらいの言葉をかけている。
まるで四十代の師匠が二十歳の修行者を相手にしているかのごとくだ。
一刀斎がそういって屈みこんだ瞬間、青雲斎が再び木刀を振り上げた。
が、一刀斎はくるりと回転し、木刀をかわした。