剣豪じじい 1章
道中、川岸に暮らす漁師から教わったとおり、細い竹槍を使い、波紋もたてず、岩魚を突いた。
大型の岩魚を十匹ほど仕留めた。
小屋に戻ったときは、日が暮れかけていた。
寅之助は笹の茎に差した三匹の岩魚を下げ、青雲斎の小屋を訪ねた。
小屋からは、うっすらと囲炉裏の火が漏れていた。
「岩魚をお持ちいたしました」
寅之助は入り口に立ち、声をかけた。
もちろん腰に刀を差している。
青雲斎は小屋の中央の囲炉裏で胡坐をかき、背を丸めていた。
鍋でなにかを煮ていたのだ。
その姿が、白い顎鬚をつけた八十歳の、ただの年寄りに見えた。
青雲斎が首をひねり、二人の目が合った。
緊張が走った。もし、いま自分が打ちかかっていったら、なにで防ぐつもりなのか。
寅之助の視線が、青雲斎の身の回りを素早く探った。
刀は背後の床に寝かせてある。手を伸ばしても届かない。
寅之助の心を読んだのか、青雲斎が声をかけてきた。
「勝負する気か」
「まさか、岩魚を届けに来ただけです」
心臓が早鐘打った。必死に正常を装った。
頭には、青雲斎の住処の様がしっかり焼きついている。
居場所は、いつも囲炉裏の縁と読んだ。
夜中に寝込みを襲うなら、入り口から大きく三歩踏み込めばいい、と目で計算した。
そして、踏み込んだ三歩めで刀を振りおろす。
将軍から出仕を望まれながら、武者修行のため、伊藤一刀斎は姿を消した。
その一刀斎の一番弟子に小野善鬼(ぜんき)がいた。
粗暴な人間で、師に申し込んできた勝負を勝手に自分で相手にしてしまう。
それほど腕が立った。
さらに師に勝とうと、寝込みを襲ったりもした。
また二番弟子で同姓の小野忠明との折り合いも悪かった。
もてあました一刀斎が、二人の真剣試合を許可し、善鬼が命を落とした。
寅之助には、青雲斎の修行に、どこかそんな一刀斎の匂いを感じた。
寅之助は、下げた岩魚を囲炉裏の端に置いた。
青雲斎は長箸に挟んだ食い物を、ふうふうと息を吹きかけ、口にもっていく。
鍋で煮ていたのは栗だった。
腕の長さほどの二本の竹箸の先は、鋭く尖っていた。
栗と長箸がいざというときの武器なのだ。
しかも、栗は縦に二つ並んで挟まれていた。
箸を払い、相手の目を狙って熱い栗を投げ、そのあと、長箸で突こうという意図かと想像する。
できればそんな攻撃を体験してみたかった。
だが、下手をしたら命と引き換になる。
林のなかの墓標を、また一つ増やすだけである。
とにかく、いつか対決するときがくる。
青雲斎が提案したように、そのときは真剣勝負である。
どちらかが死ぬかもしれない。
できれば次郎兵衛のときのように引き分けで終わるのがいい。
あるいは、襲ってくる青雲斎の攻撃を見事に防ぐのだ。
外に出ると、月が輝いていた。
吐く息が、かすかに白い。
秋もかなり深まった。
冬の雪は深いだろう。
雪は家の屋根より四倍も高く積り、いっさいの身動きを奪う。
まるで獣の冬眠である。
寅之助は薄暗い住処のなかで、重い刃引きの刀を振り、真剣を振り回した。
食料は、その時のために用意した干(ほ)し飯(い)、干し魚、山菜、長芋などであった。
9
二年が過ぎた。
その時間は、山で生きるための準備期間でもあった。
青雲斎は、七十歳になった。
毎日の剣の鍛錬と畑づくり、そして食料探しで寅之助の身体は、逆に三十代にでも戻ったかのようだった。進歩の速さは、剣豪として生きてきた経験があったからである。
だが、修行に大事な組太刀を、青雲斎は拒んだ。
あらたな弟子も現れない。
しかし、予想外の相手が登場した。
栗やあけびを探し、山をさ迷っているとき、ふいに殺気が襲いかかった。
藪を掻き分け、目の前に黒い顔が突き出た。
ぐわっと吠え、寅之助の顔面に生臭い息を吹きかけた。
熊だった。黒い毛の太い腕が空を切り、鋭い爪が寅之助の鼻先を掠めた。
熊は態勢をたてなおし、再び腕をふりあげた。
寅之助は刀を抜き、熊の小手を取った。
ついで一歩さがり、面を打った。
寅之助が身につけた新陰流は、相手に傷を負わせ、戦闘能力を奪う剣法だ。
熊は、自分の手首が斬り取られた事実に気づかない。
歯を剝き、もう一方の手を振りあげる。
寅之助の剣がひらめき、さらに熊の腕が肘から宙に飛ぶ。
右肩から左の腰を目がけ、今朝掛けに切りはらう。
喉に月の輪のある黒熊の腹が裂け、赤い肉が切れ目に沿ってめくれる。
どろどろっと内臓が下腹からこぼれだす。
熊は、やっと己の事態に気づく。
あげた手首のない両手をおろし、身をひるがえそうとする。
寅之助はその瞬間、刀をひき、背後から心臓を目がけ一気に突く。
熊は一歩も動けず、そのまま前にのめる。
寅之助は山に入ると、修行の相手であり、貴重な食料である熊を探した。
熊は冬籠りのために餌を求め、山を歩きまわっている。
糞や木の幹についた爪跡を見つけ、寅之助は足跡を追った。
その年には十頭ほどの熊と対決した。
対決のあとには重労働がまっていた。
熊のからだを切り分け、小屋に運ぶのだ。
ばらした肉は焚火(たきび)で炙(あぶ)り、燻製(くんせい)にする。
その方法や、熊の胆(い)の作りかたは、青雲斎に教わった。
いつか生死をかけて戦う師弟ではあるが、互いに殺気を探り、隙を見せぬよう、用心しながらの伝授だ。
額が痛くなるほどの緊張感である。
この感覚が、寅之助に見取りの力を蘇らせた。
戦う相手の力量や意志のなどを見抜く力だ。
逢った熊が自分を食いたいのか、人間を怖がり、攻撃して逃げるつもりなのか、腹を減らしているのか、餌を十分に食った後なのか。
瞬間、それが判断できた。
自分を餌として襲ってくるときは、一刀で切り殺す。
その他の場合は、果し合いの意気込みで、なるべく多くの太刀をあびせて命を奪う。
熊を仕留めると寅之助は椚(くぬぎ)の木を集め、肉を煙であぶった。
人の高さほどの三角錐の櫓(やぐら)を組み、半ほどに小枝を渡して棚を作り、そこに肉片を置く。
背後の小屋の軒には、燻製にした肉の塊が蔓で吊るされ、ずらりと並んだ。
10
燻製(くんせい)の作業を終えたとき、寅之助は熊の肉の塊を提げ、青雲斎の棲み処(か)に急いだ。
師匠への差し入れである。
あたりには宵が迫ろうとしていた。
右側が畑。
薄墨にちかい木立の陰が左側の頭上をゆっくりおおいはじめている。
気の早い星がぼんやり瞬きはじめた。
木立の下に潰れかけの修行者の小屋が並んでいる。
そのむこうの木立の下に、墓標がぼんやり影を見せている。
「あれ?」
おもわず声がでた。
並んだ小屋から、ほのかに明かりが漏れていたのだ。
下の谷で熊と戦っている間に、新しい剣豪志願者がやってきたらしい。
語りあう相手ではないのだろうが、嬉しいような気持ちがひらめいた。
あれから二年、熊を相手に修行を続けているが、熊はたぎるような眼を向け、吠えかかるだけだ。
青雲斎はほとんど無駄話をしない。
しかし、たまにばったり出会ったりすると言う。
「いつ掛かってきてもいいぞ。遠慮はいらん」
熊を相手に腕を上げたとはいえ、青雲斎に勝てる自信はまだない。