剣豪じじい 1章
寅之助はからかい半分の門弟たちを無視し、腰の木刀を抜いた。
「拙者は試合がしたい。どなたかお相手を願えるか」
肩を並べた門下生たちが、お? とおどろき顔を見せた。
はじめにでてきた顎鬚の男の顔が、中央にあった。
「どうだ、そのほう。鬚のおまえだ、おまえ」
寅之助は、木刀の先で鬚男を示した。
門弟たちの口元から笑みが消えた。
どうやら変なじじいは本気らしい、しかも腕に自信のありそうな気配である、と集まった門人たちは気づいた。
木刀で顔を示された男は、ぴくりと鬚を動かした。
「ここでは、木刀での打ち合いは禁止されている」
「怖気(おじけ)づいたか」
すかざず寅之助が言い返す。
「いや、試合は袋竹刀を使用する決まりだ」
袋竹刀とは、江戸の柳生新陰流諸派に用いられていた剣術の稽古用の道具ある。
文字通り、竹刀に皮を被せてある。
無用の怪我を防ぐために考案されたものだ。
「決まりを破る者はいないのか」
寅之助は門弟たちを睨みあげた。
「おい、なんだ」
門弟たちの背後で声がした。
若先生、と誰かが応じた。
事情が手短に、若先生に報告された。
門弟たちの頭の間から、きりっと髷を結った若先生の視線が、寅之助を刺した。
父上に話してみよう、と若先生はつぶやいた。
「まっておれ。いま、師範が見える」
鬚の男が、もう仕舞えとばかりに顎を寅之助の木刀をしゃくった。
寅之助は腰に木刀を戻し、上がり框(かまち)に集まった門弟たちと睨み合った。
やがて、群れていた門弟たちが、真ん中から二つに割れた。
開いた空間に姿を見せたのは、目の細い壮年の男だった。
「当道場の主、直進陰流の師範である権田源衛門門である。申し合いと聞いたが、貴殿の名を申せ」
低い落ち着いた声だった。
「新陰流、松下寅之助でござる。弓引町に住む御家人である」
寅之助も顎をひき、目を細めて答えた。
すると、道場主の権田源衛門門の目が、ぎょっと見開かれた。
「御家人で新陰流の松下寅之助だとお?」
わずかに背伸びをするように、立ちすくんだ。
剥きだされた丸い目玉が、ぎょろっと動いた。
「まさか貴様……」
が、寅之助を凝視した源衛門の唇から、憎しみのこもった声がもれた。
「またきたのか。それで、また木刀で試合を申し込むというのか」
寅之助には、いわれている意味がよく分からなかった。
しかし、源衛門門は両拳を握りしめ、ぶるぶる震わせはじめた。
「そのほう、以前、江戸で名をはせた剣豪、新陰流の松下寅之助に間違いはござらぬな」
いきなり、過ぎ去った遠い時代の寅之助について正してきた。
え? と寅之助はいぶかった。
どこか見覚えのある門構えのような気がした。
肩に陽をあび、その門のまえに立った若き日の自分の姿が、寅之助の脳裏をかすめた。
「まちがいなく、松下寅之助でござる」
うむ、と道場主で師範の権田源衛門がつづけた。
「父上は十五年ほどまえに亡くなった。二十三の歳で片目片腕を失い、頭に受けた傷で立ちあがれなくなった。ずっと寝たままの状態であったが、口癖のように申しておった。松下寅之助との力の差は歴然としていた。それゆえ、はっきり申し合いを辞退し、負けを認めた。だが松下寅之助は猫が鼠をなぶるように、腰抜け、臆病者め、立ち会え、と無理矢理試合を強要した。
江戸いちばんの剣豪を名乗るため、手当たり次第、試合を挑んでいたのだ。『松下寅之助は剣豪などではない。自分の強さを奢ろうとするただの野蛮人だ、武士の風上にもおけぬ奴だ、いつか叩きのめしてやりたい。だが、このからだでは無理だ、たのむ、きっと無念を晴らしてくれ』そういって父は亡くなった。遺言として残したくらいだから、よほどのことであったろう。
だが、試合で強い者が勝つのは天上の道理、なにひとつ言訳は許されぬと拙者は心得ておる。父にとって、真剣の試合でなくて木刀であったことがせめての救いだった。父上を蔑むつもりはないが松下寅之助殿、その歳でまたもや試合を望むという貴殿の心内(こころうち)が分からん。目的はなんだ」
寅之助は、ただただおどろいていた。
三十年以上もまえの話を、昨日のできごとのように、突然聞かされたのだ。
いわれたとおり、若い時代の寅之助は、勝利者の名声のための非情もあった。
だが、それはその時代の常識だった。
道場の看板を掲げ、流派を名乗っている限り、他流試合は当たり前だった。
歳のせいなのかどうかは分からないが、なにかに導かれるように『直進陰流剣術指南所』の道場のまえで、また足を止めていたのだ。
道場主の源衛門は細い目に戻っていた。
左右に居並ぶ門下生たちは、土間に立つ老人の自信に満ちた妙な態度に、複雑な顔つきだ。
「木刀で試合をしたいと申しているのだな。もちろん、お相手をいたす。ただし拙者は、柳生流の規則どおり袋竹刀で試合をおこなう。寅之助殿を案内いたせ」
源衛門が命じた。
寅之助は、門弟たちに道場へと通された。
板敷きの八十畳ほどの道場は、広々としていた。
今まで剣戟の響きや掛け声をあげていた門弟たちは、全員が壁ぎわで正座をしていた。
寅之助は木刀を腰に、道場の真ん中に立った。
道場に漂うなつかしい空間が、寅之助の全身を包んだ。
何年ぶりだろうか、三十五年、いやいや四十年ほどになるだろうか。
とにかく、昔を取り戻すのだ。
たまたま若き日の素行を批判されたが、あの時代はあれでもよかったのだ。
正面の神棚の下の戸が開き、襷(たすき)掛けの源衛門があらわれた。
手に袋竹刀をもっている。
源衛門は、まっすぐに板敷きを踏み、寅之助のほうに向かってきた。
その足が速まった。
試合は始まっている、と寅之助も木刀を構えた。
すでに、床を踏む源衛門の足音が、だだだ、と耳に轟いていた。
「きえーい」
鬼の形相で迫った。竹刀が伸び、いきなり面を取ってくる。
体をかわすには、決して両足を踏ん張ってはならない。
寅之助には分かっていた。
容易いことだった。
からだを右にそらせ、竹刀を木刀でかわし、逆にその態勢で面を取る。
が、寅之助の木刀は源衛門の竹刀を掠めなかった。
ふわっと柔らかく空を切ったのだ。
ばしーん、と乾いた鋭い音がした。
頭の中に稲妻が走った。
寅之助は、手から木刀をこぼし、両手をぐるぐる回しながら、尻餅をついた。
後方に一回転し、ぺたんと床の上に座っていた。
一瞬の静寂ののち、笑い声が道場中にこだました。
一撃を加えた源衛門が、寅之助のまえに佇み、細い目で対戦相手を見下ろした。
父親の仇を取るつもりなら、参ったと告げない限り、次々に竹刀が飛んでくるはずだ。
が、打ち下ろされたのは竹刀ではなく、鋭い言葉だった。
「貴様、何者だ。歳を取ったとはいえ、あやつはそんな腰抜けではない。松下寅之助を名乗り、多少の金子でも稼ごうとはかったか」
両脚を投げだし、床に座る寅之助の額に、竹刀の先を突きつけた。
「松下寅之助を騙(かた)る不届き者め。こやつを放りだせ」
師範の一声で、門弟が駆けよった。
寅之助は、文字通り道場の外に放りだされた。
痛む頭を抱え、地面に横たわりながら、寅之助はけんめいに考えた。