剣豪じじい 1章
やがて足腰がしっかりし、泳ぐ格好がなくなった。
昔の健脚はすぐに過去を思い起こし、二ヶ月ほどで胸を張って歩けるようになった。
息も切れなくなった。
腰が座り、上半身が揺れなくなった。
三ヶ月ほどで、歩くのに不自由がなくなった。
四ヶ月もすると、通りをいくみんなと同じ歩調になった。
寅之助はうれしくなり、本物の刀を取りだした。
二度と差すことがないと、覚悟をしていた刀だ。
ずんと腰が重くなった。
大小の本物の刀を差すと、眼光さえも鋭くなった。
胸を張って日本橋を往復した。
その日は日本橋を渡り、京橋を左に折れた。
鉄砲洲までいき、海を見た。
海の風を胸に吸いこみ、さあこれからだ、と晴れがましい気分になった。
寅之助は、江戸の町を速足で歩き廻った。夢中だった。
「父上、いかが致しましたか。夏江に弁当を作らせ、一日中外にでているそうですが」
役を戴いて城に勤めている倅の重太郎が、夕刻の食事時、訊ねた。
夏江は重太郎の嫁だ。
「おれは、久しぶりで生き返った」
寅之助は眉をきっとあげた。
唇の端には笑みがあった。
いつのまにか精気があふれていた。
細面の骨ばった顔に、どんより並んでいた二つの目に光が灯っていた。
「生き返ったって、父上、まさか女子(おなご)とかではないでしょうな?」
倅の重太郎が、血色までよくなった父親を見守る。
「女子だと?馬鹿をいうな。おれはまた、ちょっとだけ剣豪になるだけだ」
「剣豪ですって?」
重太郎ばかりではない。となりの膳で食事をしていた重太郎の妻の夏江も、箸をとめた。
三歳の孫の寅太郎まで、悲しそうな目を向けた。
「また剣術使いになるというんですか? 父上、六十八歳ですよ」
「毎日、ここでぼんやりしていたくない。明日からは、庭で素振りをはじめる」
重太郎と嫁は、はあ、と途惑った顔を見合わせた。
が、そっと膳に手を伸ばし、それ以上、詮索はしなかった。
5
寅之助は木刀を振るった。
二十畳ほどの小さな庭だ。
久しぶりに叫び声をあげ、跳ねまわった。
汗をかいて着物を脱ぐと、胸にうっすらと昔の名残の筋肉が浮いていた。
見てろよ、鍛えなおすからなと、拳をぎゅうっと握りる。
腕にもかすかに筋肉がよみがえっている。
一人、悦に入って微笑んでいると、縁側に姿をあらわした夏江が、お客様です、と告げた。
「次郎兵衛と申せば、わかるとのことですが」
鶯谷の茶の師匠だ。訪ねてきたのだ。
「おお、庭のほうに通せ」
寅之助の勢いのよい声が響いた。
玄関脇の押し戸を開ける音がし、勝手を知った次郎兵衛が、脇の石畳を踏み、姿をあらわした。
もと御家人の次郎兵衛も、昔、同じ間取りの家に住んでいたのだ。
「やあ、しばらくだな」
灰色の法衣に丸い帽子を被っている。小太りで八の字眉だ。
「よくきてくれた。おれも鶯谷に訪ねるつもりだった」
「あれから、どうしているのかと気になってな」
次郎兵衛は、上半身裸の寅之助のからだを値踏みするように観察した。
「いまは素振りをしているぜ。息も切れなくなった。ほれ」
寅之助は、やあ、やあ、と木刀を左右に振った。
「どうだ」
木刀を構え、次郎兵衛に向きなおる。
「おどろいたな」
次郎兵衛は、ふっくらした頬を手の平でなでた。
「歩き疲れ、川辺の茶屋でお茶をすすってる姿を想像してたぜ」
「そんなことより、ちょっとおれの相手をしてくれねえか」
寅之助は、ちらっと目を光らせ、木刀を構えなおした。
「だめだよ。おれはもう刀の握り方も忘れてる」
次郎兵衛はあわてて寅之助を手で制した。
「ほんとうだ。嘘じゃねえ」
真剣な顔つきだった。
剣はもう二度と握りたくないのだ。
「そうか」
寅之助は木刀をおろした。
「だが、おれの見取りはいまも衰えてない」
次郎兵衛は意味あり気に口にした。
見取りというのは、相手の一挙一動を観察し、力量を見極める力だ。
「おまえ、本気で剣豪になるつもりか?」
次郎兵衛があらためて聞きなおす。
「平和な世が気に食わないと言って、暴れ回っている餓鬼どもを、まずやっつけてやる。やるからには昔のように剣豪になるぜ」
寅之助は胸で大きく息をつき、うなずいた。
「正直、無理だな」
次郎兵衛は、言い切った。
「おい、なんだよ。年寄りだからってか」
「そうじゃない。なんていうか……その……軽い」
次郎兵衛は困ったように唇を噛んだ。
「軽い? 剣がか?」
「よく説明できねえ。餓鬼どもをやっつけるという、つまんない目的に邪念があるんじゃねえのかな。とにかく以前とはほど遠い」
「まだおれは、やっと素振りができるようになったばかりだ。餓鬼どもをやっつけるというのはほんの手始めだ」
「なにする気か知らねえが、一度気を抜いた剣は邪気に晒され、もう元には戻らねえ」
「馬鹿いうな。そんな話、聞いたことねえ」
寅之助は奥歯を噛み、次郎兵衛を睨みつけた。
目の奥に、ちらっと、何十年ぶりかの戦意らしき光がよぎる。
「おれたちの戦いは、生きるか死ぬかだった。うまく言えねえが、あのころ剣を構えると、切っ先からは目に見えない殺気が立ち昇った」
次郎兵衛は、ぐいと顎を引く。
「だから、これからだっていってるだろ」
寅之助も負けず、裸の肩をそびやかす。
「町道場へいって、試合をやってみな」
次郎兵衛が提言した。
そうしたらなにかが分かるさ、という言葉は省略した。
「やるさ」
寅之助が、木刀をびゅっと横に払った。
6
「お手合わせを願いたい」
寅之助は町道場の玄関に立ち、二度ほど声をあげた。
玄関脇の看板には『直進陰流剣術指南所』と墨書きされている。
伝統がありそうで、建物も古く立派だった。
右手の玄関につづく外側の格子の武者窓からは、えい、やあ、という掛け声が聞こえていた。
このご時世、はやっていて弟子も大勢いるようだ。
上がり框(かまち)の向こうの引き戸が開き、顎鬚をたくわえた男が顔をだした。
「拙者、神田弓引町御家人、新陰流の松下寅之助と申す。剣術修行のためにまかり申した」
鬚の男は、え? と上がり框から寅之助を見下ろした。
「ご老人、剣術修行に参ったと申されるか?」
「さようでござる」
寅之助は腰に木刀を差し、胸を反らした。
庭に埋めた杭を相手に、実践さながらに木刀をふるった。
新陰流は相手に多くの傷を与え、戦う力を奪う剣術だ。
少しずつ、昔の感覚が戻ってきた。
そんなある日、町道場へいって試合をやってみな、と次郎兵衛に言われた。
軽い、とも言われた。
だが、刀を握りなおしてまだ程ない。
気にはしてはいなかった。
「失礼ながら、お幾つでござるか」
「六十八でござる」
「ほう……」
鬚の男は、かがんだ背をのばした。
「少々おまちくだされ」
そう告げるや、鬚の男はきびすを返した。
奥にもどり、おーい、変なのが申し合いにきてるぞ、と告げている声が寅之助の耳にも届いた。
すると、ぞろぞろと門弟たちが出てきた。
玄関に群がり、寅之助を珍しそうに眺めた。
「新陰流の松下寅之助と申す。剣術修行のためにまかり申した」
寅之助は、落ち着いてもう一度告げた。
「他流試合の申し込みか?」
「まさか、道場破りのつもりではあるまいな」