剣豪じじい 1章
生死を掛けた敵同士でもあったし、同じ御家人でもあった。
互いに行き来をし、おれ、おまえの仲になった。
そうしていつしか年を経、二人は世の中から忘れ去られた。
同時に、二人の関係も疎遠になった。
やがて、無職の寅之助はいっきょに隠居の身となった。
そして父母に先立たれ、嫁にも先立たれ、神田川のほとりの組屋敷で日々をぼんやりすごすようなっていた。
3
「なあ、おれたちは夢を見てたんじゃねえか?」
頭のてっぺんに絆創膏を貼った細身の寅之助が、首を傾げた。
「夢なんかじゃねえ」
八の字眉の次郎兵衛が首を振る。
「見ろ、この腕の傷跡」
小太りの次郎兵衛が袖をめくった。
もちろん、すばしっこかった当時の面影はない。
左の腕に、盛り上がった二つの傷跡。
寅之助との木刀の試合で小手を受けたときのものだ。
寅之助の脇腹や脛にも同じような傷跡がある。
「おまえはあれからなにをやってた」
寅之助はちょっと考え、うんとうなずいた。
「四十三で気力が失せ、組屋敷の部屋でごろごろしてた。たまの剣術指南の仕事もやめたよ。女房もそのうち病気でいっちまって、訪ねてくる者もいなくなった」
「じゃあ二十五年間、本当になにもしないで、ぼっとしてたってのか」
「まあそうなる。剣豪時代に稼いだ賞金やら何やらを細々と使って、一日に一度だけ、近くの神田川まで歩いていって茶店で茶を飲む」
「それだけか」
「それだけだ」
寅之助は、かぶき者にやられた絆創膏の頭を、左手で軽くなでた。
「そりゃあ、鈍(なま)る。体も動かなくなり、子供にだって棒で叩かれる。たとえばその辺を、たたたって走れるか?」
「二十五年間、走ったことなんてねえ。急ぎの用なんて一度もなたかった」
寅之助は唇を噛み、首をふった。
黒い筒型の丸い帽子を頭に乗せた次郎兵衛は、上から下へ、下から上へと寅之助を横目で眺めた。
次郎兵衛よりも少し背が高い。きっと目が吊り、顔立ちも悪くない。筋肉質で颯爽とし、女性が憧れそうな剣豪だ。
「この地蔵堂にくるのだって、息が切れた」
寅之助は、はあ、はあ、はあ、と息を継いで見せた。
通りかかったのではなく、はじめから地蔵堂を目指してやってきたのだ。
「だけど、まあ聞けよ」
一息ついて次郎兵衛がつづけた。
「小普請(ぶしん)組支配組頭、山田五郎為助、七十一歳。先手鉄砲頭、上野弥衛門、六十九歳。旗奉行、横田甚右衛門はなんと八十一歳だ。ほかに何人もいる。みんな矍鑠(かくしゃく)とし、自分の足で歩いて登城してる。どうだ。今度からは神田川までじゃなくって、毎日、日本橋まで歩いていったら。馴れたら、江戸の町を速足でうろつきまわるんだ。まずは足腰だ」
試合の相手を求め、全国をめぐった若き日の自分を寅之助は思いだした。
颯爽(さっそう)として、一歩一歩に力がみなぎっていた。
だが、生きる目標を失った今はすっかり萎れ、血の流れも止まった。
意思の力が失せると、筋力もどこかにいってしまい、餓鬼の鞘ごとの刀を軽々と脳天に受けるていたらくだ。片手で振ってきたので瘤だけで済んだが、武術に心得のある者の一振りであったら、今ごろは天国にいっていただろう。
思いだしたら、恥ずかしさと悔しさがまたぐっと込みあげた。
からだが熱くなった。
「くそ、見てろよ」
あてはなかったが、我をわすれてつぶやいた。
が、ふと気づいたように、きょろりと目が動いた。
「そうだ。おめえだよ。なんでそんな茶坊主の格好なんかしてんだ」
旧敵であり、親友でもあった次郎兵衛にあらためて訊く。
「剣豪より、茶の師匠のほうが実入りがいいのさ。日本橋で賑う江戸を見たとき、もう剣豪の時代じゃねえとさっし、道を変えたのさ。おれは人を斬るのに嫌気がさしていたしな。今や、旗本や大名までがおれの弟子だぜ」
次郎兵衛は、自らうんうんと頷く。
「おれは今、茶の師匠としてお上から二百石を戴き、旗本の仲間になってる」
何十年ぶりかの次郎兵衛は、剣豪のけの字の気配も見せない、平和そのものの茶人と化していた。
4
松下寅之助は歩いた。
体力を回復させるのだ。次郎兵衛のいうとおり、まずは歩くしかなかった。
が、大通りのみんなと歩調に合わせようとすると、胸が苦しくなった。
息が切れ,足が痛くなり、道端にしゃがみこんだ。
そして人々を下から眺めたとき、世の中、自分以外、みんな精気にあふれているという事実を知った。
人々は戦争ではなく、経済活動に勤しんでいたのだ。
「おれは今までなにをしていたんだ……」
しかし、いくら考えても、なにも思い出せなかった。
そのはずである。なにもしていなかったのだ。
二十五年もの長きにわたり、寝て起き、飯を食って糞をし、川岸でお茶を飲んで過ごしていたのだ。
「ああ、なんてこった……」
寅之助は慄然(りつぜん)とした。
昔の剣の達人が、素人に面を食らった屈辱もあったが、その向こうに横たわる無味無色の霞んだ時間に気がついたのだ。
神田川を渡り、大通りまで出、須田町にきていた。
両側には、大小の店がならんでいる。三十数年ぶりの須田町である。
江戸いちばんの大通りだ。
背後で、どいた、どいたと声がし、どんと肩を突かれた。
人夫が三人がかりで、大八車をひいていた。
ぎしぎしと重い轍の音。荷物は米俵だ。
寅之助は、両手をまえにだしてよろけた。
地面に両手を突き、膝をついた。
痩せた年寄りの侍とはいえ、あまりにもだらしなかった。
目撃した通行人たちが笑った。
腰の刀も本物は重いので竹光だった。
その刀が転んだ瞬間、鞘から抜け、からからと路面に転がった。
「なんだよ、お侍さん」
「その刀じゃ、戦にゃいけねえぜ」
遠慮のない笑い声。
罵声も笑い声も、耳が遠く、聞こえないふりをした。
首を伸ばし、きょろきょろしながら立ち上がった。
そんな自分を、通りの端に立った侍がじっとながめていた。
浪人である。通りにでて初めて気がついたのだが、あちこちで見かけた。
お取り潰しの目にあった哀れな侍たちだ。
江戸にきて仕事を探す身であったが、その浪人たちも笑った。
笑い声を背に、負けるもんかと泳ぐように両手で空をかいた。
歯を食いしばり、腰を使い、必死に両脚を前後に動かした。
錦町、鍛治町、呉服町と通りすぎ、ようやく室町まできた。
すぐ先が日本橋だ。
必死に思いでやっと橋の上に立った。
息をつき、ぐるっと見渡した。
一面に町屋だった。
時の鐘が低く響く。
二十五年の間に、江戸はゆったりと賑わい、家々は軒を連ね、あちこちに炊煙があがっていた。
なんという平和な光景だろうか──。
ため息がでた。左手には、破風(はふ)を金箔で輝かせた五層の天守閣が三メートルの鯱(しゃち)を乗せ、ゆうぜんとそびえている。
「長谷川次郎兵衛のやつは、茶坊主になったってか」
同じくらいの歳でありながら、どこか生き生きしていた次郎兵衛の姿を、寅之助は思いだした。
庵(いおり)が鶯谷にある、ぜひ訪ねてくれ、と告げられた。
足腰が達者になったら、行ってみるつもりだった。
寅之助は毎日、神田川を渡り、日本橋までを往復した。
夜になると全身の筋肉が痛み、なかなか眠つけなかった。
それでも痛みに堪え、けんめいに歩いた。