剣豪じじい 1章
何度も真剣で試合をやったおれだ。勝っても、満足なからだは保障されねえ生きるか死ぬかの戦いだった。木刀の試合でも、みんな一流の剣術遣いだったから、腕の一本や二本は簡単に折れた。まともに面を食らえば、命はなかった。
そんなふうに剣の道をきわめ、新陰流の免許皆伝をしたっていうのに、素人の木刀をまともに食っちまいやがった。情けねえ、やりきれねえ、悔しい。おれはまた元のようになって、あの餓鬼どもをやっつけてえ。だけどおれのからだはすっかり鈍っちまって、おもいどおりに動きやがらねえ。
それで、お地蔵様は願いを叶えるっていうことだから、どうしたらいいかを教えてもらおうとおもって、こうしてやってきたって訳よ」
そこまで老人が告白したとき、はははとだれかが笑った。
「おい、もしかしたらおまえ、松下寅之助ではないか」
地蔵堂の参道の入口に、小太りの男の影があった。
法衣(ほうえ)のような灰色の着流し姿で、肩に黒い羽織を掛け、頭に黒い丸帽を被っている。
町の小さな地蔵堂である。
男までの距離はせいぜい十メートル。
「その声は……もしや……長谷川次郎兵衛」
寅之助は寄せていた額の皺をゆるめた。
「やあ、やあ、やあ、久しぶりだなあ」
長谷川次郎兵衛とよばれた男が感嘆の声をあげ、ずかずかと寅之助に近づいた。
「おお、おお、おお、久しぶりだあ」
寅之助も大きな声で応じた。
「元気か」
「元気だ。おまえはどうだ」
「このとおり、元気溌剌だ」
「ところで早速だけど、いまの話、みんな聞こえてしまったぞ。声が大きかったからな。とんだ目にあったようだが、このお地蔵様にそういうことお願いするのはちょっと違うんじゃねえか。そういうお願いは、したってだめだよ」
次郎兵衛は自分の顔のまえで、手の平を団扇(うちわ)のように左右に振った。
「また元のようになりたいなら、どうしたらいいかって言えば……」
「わかってらあ」
寅之助は、次郎兵衛に向かってしゃくるように顎をあげた。
「とおりかかったんだよ。悔しいこの一件をだれにも喋れなくってな。ついでだから、ちょっとお願いしてみたんだけどな。で、次郎兵衛、おまえはなんの用だ」
寅之助は、次郎兵衛の格好をあらためて見直した。
「おれはいま、茶道の師匠をやってる。明日、日本橋の店(たな)で茶器の競りがある。どうしても欲しい器があってな」
望みの器を競り落とせるよう、お地蔵様に願を掛けにきたというのだ。
「一刀切りの次郎兵衛が、いまはお茶の師匠だってか?」
寅之助は胡麻塩の無精髭をなで、ほう、と小さくうなずく。
次郎兵衛も剣豪だったが、やはり寅之助と同じ武士としては最下級の御家人だ。
徳川直属の家臣たちは、旗本や御家人と呼ばれ、石高に応じ、幕府から扶持米(ふちまい)が支給される。
しかし、下層御家人たちの扶持米の手当ては、五人家族で半年持つか持たないかの量でしかなかった。
だから、どこの家でも内職があたりまえだった。
それなりの力量があれば、骨董屋をやったり、刀の目利きをしたりするが、ごく一般的には商売用の金魚を飼育したり、観賞植物を育てたり、傘張りをしたり、あるいは町人と同じように出店で商売に励む。
多くの下層御家人たちの生活が町人と重なったので、寅之助や次郎兵衛のように、いつしか喋り言葉そのものが町人風に変わっていた。
本来、武士は町人のように商売はできない。
だが下級武士の生活ため、お目こぼしがあった。
幸い寅之助の父親は、勤番としてお城にあがることができたので、わずかではあるが手当がでた。
しかし、扶持米と合わせてなんとか生きていけるぎりぎりの糧でしかなかった。
父親が亡くなったとき、寅之助は家を離れ、剣豪を目指していた。お城勤めの役は、元服したばかりの寅之助の息子が受け継いだ。
なかば町人と化した下層御家人たちであったが、それでもれっきとした二本差しの侍である。
志のある者は町道場にかよい、剣の修行にはげんだ。
剣術は武士の必修科目であり、強ければ相応の収入にもなった。
剣術で名をあげれば、お役に付く機会もまだ残されていた。
松下寅之助は子供のころから町道場にかよい、剣の修行に明け暮れた。
そしてなんと、十六歳で新陰流の師匠に打ち勝ったのである。
十七歳のとき、真剣勝負を呼びかける兵法者と戦い、みごと勝利した。
名があがると、江戸とはいわず、全国から挑戦者があらわれた。
しかし、寅之助は一度も試合に負けなかった。
鼻息の荒くなった寅之助は他流試合と称し、江戸中の道場をめぐった。
江戸で評判になったとき、お城から使者がきた。
応じれば、最低でも五百石くらいの旗本になれた。
だが寅之助は、武者修行の旅にでた。若さでいきりたっていた。
全国をめぐる寅之助を、当地の藩主たちも篤くもてなした。
江戸では柳生新陰流と小野一刀流が、将軍御用達として幕府の庇護を受けていた。
特に柳生は剣道を武士の精神論に結び付け、全国の安定統治を目標とする徳川のお気に入りとなった。
剣豪出身者としては破格の一万石の大名になった。
だが、為政者の君臨する江戸では、武士は民の安泰のために存在するという精神論は貴重であっても、地方では近隣諸国への絶え間ない警戒が必要だだった。
腕の立つ剣豪は大歓迎であった。
しかし、どこの藩でも、旅に出た寅之助に思うような地位でのお召し抱えはなかった。
ほんの少し、出足が遅かったのだ。
先輩たちにより、その席はすでに埋まっていた。
また、二百六十諸藩をめぐるには時間が足りなかった。
またたく間、十年を越える月日が流れた。
江戸に戻ってみると、一刀流の長谷川次郎兵衛が評判だった。
次郎兵衛も御家人で歳も同じくらい、顔見知りでもあった。
修行にでている間に、頭角をあらわしたのだ。
剣術の流派の違う二人は、対決をせざるを得なかった。
松下寅之助は新陰流、長谷川次郎兵衛は一刀流だ。
対決は三度おこなわれた。武器は木刀だった。
対決のたびにどちらかが怪我をした。
が、治るとまた対決した。
致命傷にならなかったのは、互いに相手の切っ先をかわす術を心得ていたからだ。
勝負は三度とも相打ちで引き分けた。
世間は二人の力が五分であることを認めた。
このとき、もしこれが真剣の勝負だったらおれは負けていただろう、と心密かにおもったのは一刀流の長谷川次郎兵衛だった。
それは武者修行の経験の有無だった。
相打ちのときの傷の深さが違うのだ。
同じ胴打ちでも、次郎兵衛は寝込んだが、寅之助は絆創膏ですんだ。
急遽、次郎兵衛は旅にでた。
真剣勝負の試合を求めたのだ。
旅先で次郎兵衛は、剣術遣いを相手に何人もの人を斬った。
だが江戸では、剣に生きる剣豪の評価が変わろうとしていた。
剣道は、戦のない平和な時代の武士の精神面や心を鍛える道具になっていた。為政者も、そんな剣道を歓迎した。
精神論など実際の戦いには役立たずだとせせら笑う者もおり、剣豪に憧れる者はまだ大勢いた。
そんな剣豪希望者を相手に、寅之助も修行から戻った次郎兵衛も糊口をしのいだ。
だが、公式のお召し抱えや、役付きの話はどこからもこなかった。
寅之助と次郎兵衛は一介の剣豪として市井に生き、二人の仲はにわかに深まった。