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剣豪じじい 1章

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神田川のほとり。
水鳥が川面を飛ぶ。
やわらかな柳の緑。
茶屋のまえの川岸に並ぶ柳とその下の縁台。

老人は日に一度、弓引町の組屋敷(くみやしき)を抜けだす。
川岸の茶屋の縁台で、時間をつぶすのだ。
組屋敷といっても、石高五十石に満たない御家人の身分の住居である。
台所と六畳の部屋が三つあるきりの、小さな屋敷だ。

川岸の通りを行き交う江戸の人々。
褌(ふんどし)いっちょうの飛脚(ひきゃく)、天秤棒に荷を吊るした物売り、風呂敷包みを背負った商人、供をつれた侍、浮き立つように歩く若い娘。走りまわる子供たち。
いつもの風景だ。
江戸の平和は、戦国の世を生き抜いた徳川家康のお陰である。

「徳川様はえらい」
死んだ老人の父親は、息子によくそう言った。
三河出身の父親は、足軽の頭として徳川様に従った。
だから戦国時代の農民たちの悲惨な暮らしをよく知っていた。

戦場になった村は農地を荒らされ、略奪を受ける。
食料は奪われ、下手をすれば奴隷として家族も連れ去られる。
ときには、飢餓状態に追い込まれた村が、生きるために他の村を襲う。
その村がまた他を襲う。

長い間、そんな生存競争をくり広げてきたのだ。
家康は天下を治めるや、二度と戦争の起こらない平和な世の中を目指した。

「剣豪になりたいだと? このタワケが」
父親は、剣術の才能に目覚めた若き日の老人を叱った。
だが、下層の御家人の身分である父親は、出世をしたいという息子の志を無碍(むげ)にはできなかった。

ときは1651年、家康は大権現様(だいごんげんさま)として日光東照宮に奉られている。
将軍は、四代家綱。
世の中は安定し、戦いに明け暮れた人殺しの武術はもう不用だった。

だが、いつかまた戦いの時代くるのではと各地の藩主たちは、密かに力を貯えた。
しかし幕府の監視もあり、軍を備え、城を補強する訳にはいかなかった。残されたわずかな手段の一つが、剣豪の召し抱えだった。
有能な剣豪の戦力がどれくらいかは分からなかったが、各藩は剣豪たちを受け入れた。

老人は剣豪として名の知れた若かったころ、仲間や友達、そして大勢の敵がいた。
しかし、隠居して歳を重ねるとともに、潮が引くようにみんな姿を消した。

剣豪の時代が過ぎ、老人に孤独がやってきた。
孤独といっても老人には家族があった。
老人の女房は十年ほどまえに他界したが、息子夫婦と孫がいた。

徳川家の最下層の家来であったが、息子は運よく役にありつけた。
役人の仕事を得、下級御家人の一家として内職をしたり、町人にまじって商売の真似ごとをしなくてもすんだ。

老人は溜息をついた。
空が晴れ、すがすがしかったからなのか、世の中が平和すぎたからなのか、日々の孤独感に堪えられなかったからなのか──自分でも分からなかった。

『ほーほけきょ』
川岸のどこかで鶯(うぐいす)が鳴いた。
「今年も春がきたか……」
老人がつぶやいたとき、左手の川上が騒がしくなった。

若者の一団だった。
十人近くいた。
全員が胸をはだけ、女でもないのに赤や花柄など歌舞伎役者のような原色の着物をまとっている。
髷(まげ)を前に垂らしたり、横に傾かせたり、頭のてっぺんに高く結びあげたり、それぞれがてんでに好き勝手な格好をしている。

暇をもてあまし、徒党を組んで町を徘徊するかぶき者たちだった。
連中はなにが不満なのか、江戸の平和をかきみだすように暴れ回った。
「おい。ここらでちょっと休んでいこうぜ」
先頭をやってきた立髪(おつがみ)の男が、おどけた口調で告げた。

髷を結わず、肩まで伸ばしている。肩に刀を担いでいる。
若者たちは意味もなく奇声を発した。
柳の木のまわりを飛び跳ね、両手をあげ、いっせいに踊りだした。
踊りながら、木刀をもった者が柳の幹に胴払いをくらわせる。

一人が川に向かって小便をすると、それにならい、全員が横一列に並ぶ。ぷ~と一人が屁をすると、わあと笑い、みんなで放屁した。
若者たちは縁台を押しのけ、柳の根元にすわりこんだ。
周囲は下品な騒音でいっぱいになった。

縁台の客たちが逃げだし、川岸から七、八歩ほど離れた店内の客たちも、あわてて席を立った。
店の女中たちが、おそるおそる川岸のほうに顔を向けている。
すると女中たちの背後から、額のひろい小柄な男がでてきた。

店の主である。
主は、急ぎ紙に包んだ金子(きんす)を手に川岸に向かった。
「みなさん、お楽しみのところを申し訳ございません。わたしどもは静かなこの川岸で客商売をさせていただいております。そこのところをお含みいただき、どうかこれで……」

主は、木刀をもった立髪の男に紙包みを差しだした。
連中の親玉らしきその男は、唇をひん曲げて笑い、包みを懐にねじこんだ。
茶店の主は、安心した顔つきで店に戻った。

だが、若者たちは奇声を発しつづけた。
主がまた腰を低くし、川岸に引きかえした。
「どうか、お立ち去りくださいますよう、お願いでございます」
川岸に座り込んだ若者たちに、そう言って頭をさげた。
「立ち去れだと?おれは立ち去るなんていった覚えはねえよ」
「しかし、先ほど」

主は口ごもった。
その主の脳天をめがけ、立髪の若者が肩に担いだ長刀を鞘ごと振った。
木刀を持ったほかの若者も、いっせいに打ちかかった。
主は悲鳴をあげ、地面にへたりこんだ。

「おれたちは、ここにいてえんだ」
「ここが気にいったんだよ」
頭を抱えてうずくまる主を、ほかの数人が足で蹴り、踏みつけた。

「こらあ。餓鬼ども」
ふいに怒鳴り声だった。
柳の枝の陰からである。
しだれた枝の下に、細身の老人が立っていた。
胸を張り、堂々としている。

「馬鹿者ども、いい加減にしろ」
老人は眼光鋭く叫んだ。
左右の目尻に垂れかかった長い眉毛。
額をゆがめ、蟀谷(こめかみ)に筋を浮かべ、背筋をぴんと伸ばしている。
やせ細ってはいたが、骨格も太く、強靭(きょうじん)な力を感じさせた。

老人はしだれた柳の枝をくぐり、ゆっくり歩み出てきた。
若者たちの親玉は、数多くの喧嘩を経験してきた。
だから知っていた。
ときには十人で立ち向かってもかなわない相手がいることを。

まさに老人には、そんな手練の匂いが立ちこめていた。
年寄りでも油断をしてはならないのだ。
「おい、ひきあげようぜ」

が、そのとき、一人の若者がでてきた。
仲間に加わったばかりで、まだなにも知らない。
手に木刀をもっていた。
「やあ」
かけ声とともに打ち掛かった。


「おれはよ、避けられるとおもったぜ。そうしたら、頭にどかーんてきやがった。悪戯半分の、剣術のけの字も知らねえこの世の屑みてえな餓鬼の一振りだけど、ぴくりとも動けなかった。

いくら昔、剣豪だったからといっても、刀なんてずっと握っていなかったからな。隠居したのが四十三だから、数えてみたら二十五年も剣と縁がなかった。それに今年六十八歳だってことも、すっかり忘れてた。とにかく気がついたら、地面にひっくり返ってた。

『くそじじい、態度だけじゃねえか。おれたちを馬鹿だとお?』
やつらはそう言っていっせいに笑いやがった。ぺっ、ぺっと唾を吐きやがった。全員に足で蹴られた。
作品名:剣豪じじい 1章 作家名:いつか京