剣豪じじい 1章
「駿河町に住む弥平という男がいます。騙してあたしの娘を自分の家に連れていき、部屋に閉じこめました。自分の嫁になれ、というのです。あたしが行ってもそんな娘は知らない、と埒があきません。助けてください」
母親は、寅之助がかぶき者を征伐する場面を見ていた。
それでおもい余り、やってきたのだ。
母子は二人暮らしだった。
聞いたからには放っておけなかった。
寅之助は、駿河町にでかけた。
顔役の弥平の家はすぐに見つかった。
やくざ者だった。
「じじい。おれが娘をどうしようと、おめえには関係ねえだろう」
年寄りだからと、相手は油断をしていた。
寅之助は、わざと杖を突いてでかけた。
その杖で、いきなり弥平の額を殴りつけた。
その男には、力を見せればよかった。
次に寅之助の前に立ったのは、市太郎という若い男だった。
親が道三堀(どうさんぼり)の旗本、井崎五郎左衛門に殺されたという。
無礼討ちだった。
通りで肩がぶつかったのだ。
井崎五郎左衛門は無礼打ちが趣味だった。
すでに七、八人を手打ちにしていた。
この平和な時代に、人を斬って楽しんでいるのだ。
寅之助は、屋敷から姿を見せた井崎五郎左衛門のあとをつけた。
おい人殺し、と声をかけ、刀を抜かせた。
寅之助は、井崎五郎左衛門の両腕を断ち斬った。
一瞬の剣の閃きだった。
こんな事件もあった。
神田明神の境内に裸の子供が三人、男の人質になっていた。
男は、子供の衣服専門の剥ぎ取り強盗だった。
三人は、比較的裕福な近隣の商人の子供たちだった。
着ている衣服は、かなり高価だ。
剥ぎ取りは、遊んでいた三人を言葉たくみに誘った。
境内の裏に連れていき、衣服を剥いだ。
そのとき、探しにきた付き添いの女中が助けを呼び、たちまち人が寄ってきた。
剥ぎ取りは三人の子供を片腕に抱えこみ、もう片方の手で刀を構えた。
だれにも近寄られなかった。
寅之助が行ってみると、子供たちの泣き声とともに剥ぎ取りが、大声でわめいていた。
壮年の男だった。
「やい、てめえら、あっちにいきやがれ。そうすれば子供は無事に返してやる。だれも近づくんじゃねえ。こっちにくるなっていってんのに、おいおいおい、なんだくそじじい。杖ついて、よろけながら……くるなっていってるだろ、こっちによろけるんじゃねえって……あっ」
寅之助の杖が、電光石火のごとく閃く。
剣豪じじいの噂がながれた。
16
「奴は刀を抜くんです。浪人とは言え侍ですから恐いです」
小粒の頭をてらっと光らせ、大屋の七兵衛は困り果てたとばかり、眉根を寄せた。
店子(たなご)の浪人の名は、大野一馬(かずま)。
一馬は長屋に住みながら、店賃(たなちん)を払わないのである。
「払ってくだされ」
そう大屋(おおや)が催促すると光り物をかざす。
「今の拙者には、これしか持ち合わせがない。仕事もないから払えない」
七兵衛を睨み、うぐっと頷く。
「仕事を探していらっしゃるんですか?」
腰を低くした七兵衛が恐る恐る訊ねる。
「あちこちの藩を訪問し、お召し抱えを願っているが、どこも駄目だ」
「だからといって、家賃は払わなくていいという理由にはなりません。今月の分ではなく、去年からの分もですよ」
「申し訳ない。仕方がないから、ここで腹を切って詫びよう」
持った刀を逆手に持ち、着物の襟を左右に分けて腹を出す。
「あなた、おやめください」
隅に座っていた奥さんが叫ぶ。涙目である。
「お父さま、おやめくだされ」
母親に寄り添っていた五歳の娘も、かわいい声で叫ぶ。
『ああそうですか。どうぞ、遠慮なく切ってください』
七兵衛はいっそ、そう言いたかった。
あばら骨が浮き出、ぺこりとへこんだ腹。
こけた頬に、空しく光る眼(まなこ)。
やめてくださいと訴える女房と小さな娘も、すっかり頬がこけている。
痩せ衰え、案山子のごとき姿を見ると、なにも言えなくなる。
「しかも、うちの店(たな)にはもう二組の浪人家族が住んでおり、真似て同じように刀をふりまわすんです。なんとかならないかと」
七兵衛は寅之助の前で、弱りはてたとばかり首を左右に振る。
「払ってくれるように説得していただけないでしょうか。旦那さんならば、刀なんか怖くないと思いますけど」
寅之助に哀願する。
馬鹿いうな、刀が怖くない者なんているか、と言いたかったが、寅之助は我慢した。
話を聞いているうち、江戸に暮らす浪人たちの暮らしを覗いてみたくなった。
ほとんどの浪人は、藩主たちの行為が徳川幕府に沿わず、改易の憂き目に遭った元家臣たちである。
いままで武士として禄を得、殿様に仕えていた者が突然世間に放り出されたのだ。
どんな侍でも途惑う。
神田川の茶屋を訪ねてきた大屋の七兵衛の後につき、寅之助は京橋の裏店に出向いた。
道々、改めて意識すると、通りには浪人とおぼしき侍たちの姿が目立った。
賑やかな京橋の通りの一画に、畳一畳ほどの木戸が設けられていた。
木戸をくぐり、路地に入る。
そこは、表の賑やかさとは縁のない世界である。
足もと、通路わきに設けられた溝(どぶ)の臭い。
左右にならぶ家々の障子ははんぶんが破れ、中が透けて見える。
化粧中の女。若い夫婦。年寄りの一人住まい。
子供四人と祖母、そして夫婦の七人家族。そ
れぞれが、玄関の土間兼台所と四畳半の空間で暮らしているのだ。
便所は共同で、長屋の奥にある。
「ごめんください」
その店(たな)の障子は煤けてはいたが、以前の緊張した侍の生活を思わせるかのように、破れ目はどこにもなかった。
ただし、隅の一か所が、空気抜きのごとく、五センチ四方でくり抜かれていた。
声をかけると、すっと障子戸が開いた。
土間に奥さんの姿があった。
その背後の畳のない板の間に、主の大蔵一馬が立ちすくんでいた。
まだ三十代で若い。
一馬はそこに大屋の姿を見付けると、あわてて壁に立てかけてあった刀を手にとり、さっと抜いた。
「金はない。払えんと申したであろう」
双眸を(そうぼう)を光らせた。
寅之助が、大家の七兵衛の背後から顔をのぞかせる。
その白刃、そして怒りに燃えた目つきなど、すべてが本気ではないことを見抜ぬく。
剣の構えも、剣術遣いのそれとはほど遠かった。
「お、おまえは、何者だ」
現れた二本差しの年寄りの侍に、一馬はあわてた。
「大屋さんに頼まれ、やってまいりました。松下寅之助と申します。店賃未払いの件について、刀を抜いての交渉を、やめさせて欲しいとのご依頼です」
寅之助は、一言一言をはっきり、丁寧に述べた。
浪人の一馬は力が抜け、立ちすくんだ。
目をしょぼつかせ、二息ほど息をついてから刀を鞘に納めた。
部屋にはなにもなかった。
奥さんと子供と本人、それに布団の代わりの掻巻が隅に畳まれていた。
「仕官を探しているが、ないのだ。だから払えないと何度も申しておる」
一馬は改め、訴えた。
「拙者は、刀を抜くのをやめさせにきた。今どきは、仕官の件は剣術に優れているとか、算術が得意だとか、特殊ななにかがない限り、無理であろう。とにかく武士をあきらめ、いっそ日雇いの力仕事などはどうだ。貴殿のからだなら金になる」
「馬鹿者。そんなもの武士にできるか」
やはり怒りだした。